ルカによる福音書5章1~11節
伝えたことが相手にそのまま伝わらない場合がたくさんあります。特に、毎週のわたしの説教が皆さんにどれだけ届いているだろうと思うと不安になります。もしかしたら、10年以上もしてきた説教が、実は、いまだに何を言っているのか全く分からない方がおられると思うと、本当に申し訳なく思ってしまいます。悲しいことです。
拍手をするためには右と左の手が合ってこそ音が出るように、言葉の響きも、言う人と聞く人の心が通じなければ響きません。一緒に座っていても心が同じ方向を向いているか否か、同じ屋根の下に暮らしていても気持ちが合わなければ、そこから苦しみが生じるようになります。神さまとわたしたちの関係も同じと思います。神さまはわたしを見ているのに、わたしはまったく別の人に関心をもっていれば、どんなに神さまがわたしを見ていても視線は合わず響きもありません。
響き、それは秘められているもの同士が出会う音なのだと思います。神さまは、毎日、わたしたちと響き合いを望んでおられます。
イエスさまは、ペトロの船に乗って人々にお話をなさってから、彼と一対一で向かい会う時間を作りました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。しかし、「わたしたちは夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした」というペトロの返事。けれども、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」という、半信半疑の思いで従う人間の微かな可能性、切れてしまいそうな細い糸のような希望を、神さまは見逃しませんでした。神さまが人との出会いを完成させられるのです。
半信半疑の思いで沖に漕ぎ出して網を降ろした結果、網が破れるほど取れた魚の量を見てペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」と、イエスさまの前にひれ伏します。のちにこの場面は彼の人生の大きな転換点を作ってゆく場面となります(ヨハネ21:15~19)。神と人の出会いの響き、それは、悔い改め!神との響きの中で人は地にひれ伏して涙を流すしかない。なぜなら、一番幸せな瞬間だからです。自分の中に与えられていて虚しくさ迷っていた神のものとその創造主が出会い、抱きしめ合って愛し合っているからです。主の弟子になる、従うということは、自分に与えられている神のものを、神と出会うように差し出して、その出会いの響きを現して生きることではないでしょうか。そこで人はホッとするからです。
2019年1月27日説教より