降誕節第1主日 ルカによる福音書2:22-40
イエスさまの誕生のニュースは、福音書に記録されています。四つの福音書の中でも、マタイとルカによる福音書だけに書かれています。ところで、マタイによる福音書とルカによる福音書のイエスさまの誕生の記事は、別の方法で記録されています。マタイによる福音書は、イエスさまの誕生をお祝いするために東から来た占星術者と彼らがささげた高価な贈り物について記録されています。一方、ルカによる福音書には、泊まるところがなく、飼い葉桶に寝かされたイエスさまと身分の低い羊飼いのお祝いと賛美が記録されています。当時の羊飼いたちは、ユダヤ人にとって最も大事なことであった安息日を守ることができない人たちでした。羊に良い草を食べさせるために休まず移動しなければならなかったので、安息日を守ることができませんでした。だから当時の人々は羊飼いになることを避け、羊飼いを見下していました。しかし、このような人々にイエスさまの誕生が最初に知らされたというのは、神の国がどんな人のものになるのかをよく表していると思います。
今日の福音書は、イエスさまがお生まれになってから約40日後の話です。
今日の福音書22節をみましょう。「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に捧げるため、エルサレムに連れて行った。」
一般的に、律法に従って子供を産んでから8日後になると、割礼を行います。そして40日が過ぎたら、子供と一緒に神殿に行って、焼き尽くすいけにえのために1歳の小羊一匹と、贖罪のいけにえのために山鳩や家鳩1匹をささげなければなりませんでした。ところが、今日の福音書では、この小羊のことが書かれていません。小羊のことが抜けていて、代わりに山鳩と家鳩2匹についての話が書かれています。その理由は、イエスさまの家の暮らし向きと関係があります。レビ記12書8節に書かれている律法には、貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩でいけにえをささげることを語っています。つまり、山鳩と家鳩でいけにえをささげようとしたというのは、イエスさまの家が小羊をささげられないほど貧しかったということです。
とにかく、イエスさまの両親であるヨセフとマリアは、いけにえをささげるためにエルサレムの神殿に入りました。そして、そこで、シメオンという人と出会います。シメオンについては、今日の福音書25〜26節に書かれています。
「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」
聖書は、シメオンについて正しい人で信仰があつく、聖霊が彼にとどまっている人だと記しています。私は、これが聖書が人を判断する基準だと思っています。エリートか、有能な人なのか、良い血統の人か、高い地位を持っている人か。。これらのことで人を判断している世の中の基準とは全然違います。イザヤ書55章8節にはこのように書かれています。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」
この言葉のように、神さまの思し召しにふさわしかったシメオンは選ばれ、メシアと出会うことになったと思います。
一部の人々は、このシメオンを祭司長だと思っています。シメオンがエルサレムの神殿にいたことと、イエスさまの両親がイエスさまをシメオンに渡したことで、シメオンを祭司長だと思っています。しかし、シメオンとイエスさまの両親が出会ったところは、神殿の境内であり、この場所は誰でも入ることができるところでした。すなわち、シメオンは祭司長だということより、神殿の境内に入ってきたお年寄りの普通の人だったと思います。しかし、聖霊は、この平凡なおじいさんと共におられ、多くの人々の中でメシアを認識することができるようにさせました。それで彼は、このメシアを抱いて賛美することができました。この賛美がルーテル教会の式文にある「ヌンク・ディミティス、シメオンの歌」です。歌詞だけを私が読んでみます。
「今わたしは主の救いを見ました。主よ、あなたはみことばのとおり、しもべをやすらかに去らせてくださいます。このすくいはもろもろの民のために、お備えになられたもの、異邦人のこころをひらく光、み民イスラエルの栄光です。」
シメオンはこの美しい賛美を通してイエスさまの誕生をほめたたえ、イエス様の両親を祝福します。そしてシメオンは、イエスさまがどのような人物になるかを預言します。イエスさまは、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりして、反対を受けるしるしになるのです。マリアもこのことによって心に大きな傷を受けるのです。しかし、このことが無駄になるのではありません。このことによって、多くの人々の心にある思いが現れるからです。その思いとは何でしょうか。有名になることを願い、偉くなることを願い、支配することを願っている人間の欲の心ではないでしょうか。イエスさまは、低くされている者のためにこの世に来られましたが、彼らさえも、イエスさまによって高くなることを願うでしょう。自らが高いと思っている人々も、イエスさまに反対するでしょう。これらのことが、イエスさまによって表されるのですが、それにもかかわらず、神さまはご自分の御子をこのような人々のために犠牲になさるのです。神さまが施してくださる救いの価値が、イエスさまを通して表されるのです。
このとき、アンナという人が登場します。シメオンが信仰あついおじいさんなら、アンナは信仰深いおばあさんです。アンナについては、今日の福音書36〜37節に書かれています。
「また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、」
アンナについての説明の中で、目立つことがあります。それはアンナがアシェル族の人であること、女預言者であること、やもめであることです。ソロモン王以降、イスラエルは二つの国に割れます。北イスラエルと南ユダに分かれた彼らは、互いに戦争することもありました。この両方の中で、いわゆる、正統と言えるダビデの家を受け継いだ国は、南ユダでした。そして、イエスさまの時代のエルサレムの神殿は、南ユダの神殿でした。ところが、その場所でイエスさまのことは、北イスラエルの女預言者にによって人々に知られます。さらに、アンナはやもめでした。やもめもやはり、羊飼いのように人々に認められない人でした。貧しくて、助けを受ける対象でした。ところが、このような人々によってイエスさまの誕生はお祝いを受け、知られ始めました。
ルカによる福音書は、イエスさまの誕生に羊飼い、平凡なおじいさん、やもめのおばあさんを登場させます。そして彼らを通して、イエスさまの誕生をこの世に知らせます。一般的に、偉大な人の誕生には、偉大な人のお祝がついて来ます。しかし、イエスさまの誕生には、力がなくて無名の人、貧しくてつらい仕事をしている人々が共にいました。神の国は、誰に臨むのか。誰が神の国を受け継ぐのか。ルカによる福音書は、特別で優れた人、律法をよく守る環境にいる人ではなく、私たちのように、この世を生きていく平凡な人、暮らし向きがよくなくて、安息日も守らない人々に救いが臨まれたということを教えてくれます。私は、私たちの神さまは、無名の人々のための神さまだと思います。 この神さまの言葉を信じて従っている私たちの上に神さまからの平安がありますように。イエスさまの誕生の喜びが私たちの貧しい隣人と共にありますように、主の御名によって祈ります。アーメン