マルコによる福音書1章1節~8節
本日のみ言葉、マルコ1章1~8節は、私たち一人一人に与えられた、神さまからの贈り物である喜びのお知らせに他なりません。私たちの罪を赦してくださる神さまがいらっしゃる。神の子イエス・キリストがいらっしゃると教えてくれています。
当時の人々も、苦しみから逃れるため罪の告白をし、洗礼者ヨハネから洗礼を受けていたのでしょう。人は、自分で善し悪しを決められるほど強くありません。「これでよかったんだ」、「大丈夫」と思っても、やはりどこか心の片隅で「もしかしたら違うかも」と思ってしまいます。それはそうです、私たち人間は、何が正しくて何が間違っているのかなど分からないからです。
だから人に意見を求めてしまう。そして求めておきながら、自分と違う意見だったり、疑問視されたりしてしまうと疎ましく思ってしまう。自分と違う考え方を否定し、受け入れられないだけでなく、場合によっては相手を攻撃してしまったりしてしまいます。
自分でも「もしかしたら…」と思う所があるだけに、必要以上に強く反発し、攻撃する人をここ最近多く見るようになった気がします。もしかしたら、このcovid-19で気持ちがナーバスになっている方が多いのかもしれません。
違う考えの人の意見を受け入れることは、人によっては難しいことかもしれません。それは、自分の考えを変えること、場合によっては、自分を否定することになるのではないかいう恐怖があるのかもしれません。自分の考えを変えるということは、今まで生きてきた中で培ってきたもの、学びや、文化や経験など、全て違う方向に向かわせることになりますから、苦痛が伴うのではないかと思ってしまうのかもしれません。また人によっては大変勇気がいることなのかもしれません。著名人であったり、上の立場にある人、権威のある人によっては致命的になると思い込んでいるのかもしれません。
そのことを思う時、私は何の力もなく、ちっぽけな存在で本当によかったと思います。考えを変えることにそれほど抵抗を感じません。懐疑心が生まれてしまうことも多々ありますが(未熟者ですね)、自分の考えと違う考え、思い等を聞くのはとても楽しく、新鮮で、驚きに満ち、違う考え方に出会えたことに感謝したりすることもあります。
ただ、中には嫌悪感や悲しみを伴うこともあります。その気持ちを表に出してしまう時もあります。そういう時は大抵、心にゆとりが無かったりすることが多いです。心が閉ざされてしまっている状態なのですね。その中に示された「気付き」に気付けないことがあります。後から思い出し反省するのですが、その後悔たるや…気を付けようと思っても、余裕がなくなるとまた出してしまう…。キリストに出会うことにより大きく変えられた私ですが、変われなかった部分がまだまだあるようです。
マルコによる福音書1章3節『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』
この整えるということは、自ら曇らせてしまっているものを取り除くということも含まれているかなと私は考えます。自らの思い、考えに縛られ、これから訪れるであろう新たな恵みに気付けず見過ごしてしまうことにもなるかもしれないからです。
だから当時の人たちはこぞって洗礼者ヨハネに罪の告白をし、洗礼を受けていたのでしょう。
私たちはとても幸せなことに、イエス・キリストを通し罪が赦されています。私たちの罪を全て担い、私たちに赦しを与えてくださいました。その方がいらっしゃる、神そのものである神の子イエス・キリストがいらっしゃる。これ以上のgood newsが他にあるでしょうか。
私たちにはイエス・キリストを通して、どうすればいいか示されています。
マルコによる福音書12章29節~30節
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
絶対的な愛で私たちを愛してくださる神さまに対し、どの様な形で私たちは応えることができるのか。それは第二の掟である「隣人を自分のように愛しなさい。」これに尽きると思います。ではその隣人を愛するということはどういうことなのか。イエスキリストが教えてくださったように、相手を受け入れること。同じ位置に立ち、共に喜び共に悲しむこと。共に分かち合い歩んで行くこと。共に祈り合い、支えあうこと。
大きく二分されつつある今だからこそ、この「隣人を自分のように愛しなさい。」がとても大切だと思います。相手を受け入れる。相手がどうしてその様に考えているのか、思っているのか心を向ける。一人一人がそう考え始めた時、世の中に平安が訪れるのではないでしょうか。
この世に神の国がもたらされること。イエス・キリストが再臨されること。これらは全て道を整えることから始まります。私たちが持っている罪。その罪を赦すため、その苦しみのしがらみから解き放つためにイエス・キリストがいらしてくださいます。私たちはそのことを知っているのです。知らされているのです。この希望に満ち溢れた喜びを持って、過ごしていくことができたらと思います。どんな苦しみの中にあっても、必ずや救いの時は来る。
イエス・キリストの誕生を待ちわびつつ、整えられたらと思います。