四旬節第5主日 ヨハネによる福音書12:20~33
いま私たちは教会の暦でレントの時、四旬節の時を過ごしています。四旬節はイエス・キリストの十字架までの歩みに思いを馳せ、イエス・キリストの十字架の死を思い巡らせるときです。今日、私たちは四旬節第五主日を迎えました。イエスさまの十字架の死はもう目の前です。
みなさん、自分が十字架にかけられる、なんてことを想像してみたことがあるでしょうか。イエスさまはどのような気持だったのだろうかと考えると胸がぎゅーと締め付けられるような思いがします。
どうして、何のために、誰のために、イエス・キリストは十字架の死を受け止められるのでしょう。どうしてそこまでされるのでしょう。今日の福音書の箇所は、十字架の死へと歩んでいくイエスさまの思いが示されている箇所です。
今日の聖書箇所は、何人かのギリシア人がイエスさまに会いたいといってきたところから話が始まります。イエスさまはそのことを知り、人々に「人の子が栄光を受けるときが来た」と、まるでギリシア人たちがイエスさまのもとに会いに来たことがきっかけで「栄光を受けるときが来た」かのように話し始めます。
もちろんイエスさまは、ユダヤ人でない、外国人であるギリシア人たちの、イエスさまに会いたい、イエスさまにお目にかかりたい、というその思いをしっかりとくみ取ってくださっていたでしょうし、彼らのことをしっかりとみ心に留めていたに違いありませんし、彼らがイエスさまのもとに会いに来たことを喜んでいたと思います。
神さまは、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが関係ない。すべての国民、民族、すべての人にまなざしを向け、すべての人をみ心に留め、心配り、心砕き、すべての人をイエス・キリストのもとに招いておられます。
私たちも神さまによってイエス・キリストのもとに招かれた一人ひとりです。私たちは実際にイエスさまには会ったことはないけれど、イエス・キリストの言葉に慰められ、励まされ、イエス・キリストの限りない無償の愛に力づけられ、勇気づけられ、私たちの救いのために差し出されたイエス・キリストのいのちと、永遠のいのちの約束に支えられ、希望のうちに生かされています。
イエスさまは言います、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう(32節)」と。
何度でもいいます。神さまはすべての人にまなざしを向け、み心に留め、心配り、心砕いておられます。すべての人を身許に引き寄せ、引き受け、受け止めてくださるのです。
私たち一人ひとりにいのちを与えてくださった神さまは、私たちの身元引受人ならぬ、私たちを御許に引き受ける神です。イエスさまは言っています「あなたがたをみなしごにはしておかない(ヨハネ14:18)」と。そうです、神さまは私たちを愛してやまない子どもとして受け止めているし、私たちのことを決して見捨てることをしないし、御許に引きよせ、引き受け、受け止めてくださる。
神さまは、すべての人をご自身のもとに引き寄せるために、み子イエス・キリストをこの世界に、私たちに与えてくださいました。神さまは、私たちとの関わり、交わり、繋がりを大切にし、いつでも共に生きようとされるのです。その確かな証がこの世界に与えられた、み子イエス・キリストであり、聖書のみ言葉であり、キリストのこの教会が在ることでしょう。
神さまが与えてくださったみ子イエス・キリストのいのちと死の出来事は、この世界の人類史上最も私たち人間に影響を与えているといえるでしょうし、またこれからも影響を与え続けるに違いありません。
イエス・キリストは神さまがこの世界に蒔かれた一粒の麦です。イエスさまはいいます「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と。
イエスさまの死は、この世界が多くの実を結び、実り豊かなものとなるためだ、と言われるんです。イエスさまのいのちの実、愛の実がユダヤ人の心にも、ギリシア人の心にも、日本人の心にも豊かに結ばれ、豊かな心持で、キリストを中心とした豊かな交わりの中で生きるものであってほしい。これが神さまのみ心でしょう。
イエス・キリストは、神さまがこの世界に蒔かれた一粒の麦。神さまは、ユダヤ人も、日本人も、移民も、難民も、外国人も関係なく、イエス・キリストによって示された限りない無償の愛と、永遠のいのちの中に引き寄せ、神さまの子どもとして、愛と、ゆるしの中で豊かな人生を送ってほしのです。
イエスさまはいいます「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠のいのちに至る(25節)」と。
私たち人間はいのちへの強い執着があることは間違いないでしょう。そこで自己愛に生きてしまう、自己中心に生きてしまうのが私たち人間の姿かもしれません。自分の身を守るため、自分の幸せのためなら、人を押しのけ、傷つけ、蹴落としてしまうなんてことがあるでしょう。そして人のエゴと欲望がエスカレートしたところではいのちを奪い合うことで、大切な命を失うなんてことがこの世界の歴史の中で何度も繰り返されています。
実に、イエスさまの弟子たちもいのちの危険を感じたとたんにイエスさまを裏切り見捨てましたし、ユダヤの祭司長たちや議員たちは、保身のためなら自分たちに都合のいいような証言をするのです。
ただ、イエスさまは静かに深い憐れみと愛のまなざしを人々に向けます。裏切った弟子のペトロにも、議員や祭司長にも、ローマの兵士たちにも、同じように十字架に釘づけにされた罪人たちにも向けるのです。
イエス・キリストは地に落ちて死ぬことを憚りませんでした。誰が好き好んで地に落ちたいと思うでしょうか。誰が好き好んで死にたいと思うでしょうか。キリストが地に落ちて死なれるのは、愛してやまない私たち一人ひとりをご自身の無償の愛とゆるしと、永遠のいのちの中へと引き寄せ、私たちがお互いにキリストの愛と、ゆるしと、いのちの中で、神さまの子どもとして生きるためです。
イエス・キリストが地に落ちて死なれたのは、私たちが神さまから与えられた儚くも尊いこのいのちを保ち、永遠のいのちに至らせるためです。
私たちのいのちを保ち、守り、支えるためなら地に落ちることも憚らないのが私たちの主イエス・キリストです。私たちのいのちを保ち、守り、支えるためなら十字架の死に至ることも憚らないのが私たちの主イエス・キリストなのです。
イエス・キリストの十字架の死の出来事、そこに示された神さまの限りない無償の愛はこれからもこの世界と、私たち一人ひとりに大きな慰めと、励ましと、生きる力、勇気、希望を与えて、永遠のいのちに至るように私たちを導き続けてくれるでしょう。
私たちは主イエス・キリストの十字架の死と、そこにあらわされた神さまの深い憐れみと、限りない無償の愛と、ゆるしをしっかりと受け止め、必ず神さまが御許へと引き寄せ、引き受け、受け止めてくださることを信じて、すべてをゆだねて、キリストの平安と永遠のいのちの約束の希望のなかで心穏やかに生きていきましょう。
そして、キリストの愛の実がこの地にますます豊かに結ばれることを望み、願い、祈りつつ神さまから与えられたかけがえのない、尊いいのちを大切にし合い、支え合い、仕え合い生きていきましょう。