復活節第2主日 ヨハネによる福音書20:19~31
先週がイースターの礼拝でした。イースター前に緊急事態宣言が解除され、イースターを教会に集ってお祝いすることができて本当に嬉しかったです。みなさんもイースターの礼拝を通して、キリストの復活の出来事を通して、また神さまから生きる力と、勇気と、希望とをいただいたのではないでしょうか。
神さまは今年も私たちにイースターの礼拝を通して大きな希望を与えてくださいました。
イースターの日曜日に感動した出来事がありました。それは、浦和教会で最長老の95歳の姉妹が一人で杖をついてイースターの礼拝に来られたことです。その篤い信仰と、教会のみなさんとイースターの喜びを共有したいという熱い思いと、復活の主イエス・キリストを慕い求める姿に感動しました。マグダラのマリアが主イエスを心の底から慕い求めて、週の初めの日の朝早くに主のもとへと急いだという姿と重なり合って見えました。
95歳の姉妹が復活信仰に生かされ、真剣に祈られる姿、手を振るわせながら「ありがとうございます」といって聖餐に与る姿、そして「また来ます。さようなら。」といって笑顔で帰って行かれる姿に、僕を含めた多くの人たちが力と、勇気と、希望とをいただいたと思います。神さまは、姉妹を通して、姉妹を用いて、恵みと、栄光とをあらわしてくださっているのだということを思い、甚く、深く感動しました。
さて、すべての福音書は復活の主イエス・キリストに最初に出会ったのは女性たちであったといいます。では男性たちはどうしていたかというと、今日の福音書の箇所には「自分たちのいる家の戸に鍵をかけて(19節)」閉じこもっていたというのです。
イエスさまが捕らえられ、権力者のエゴと欲望によって十字架につけられ、処刑されてしまった。それは、それは恐ろしかったと思います。自分たちもひどい目にあわされるかもしれないという恐れはあったでしょう。また、これまで期待と、希望を置いて何もかもを捨てて従いついてきたイエスさまがいなくなったことは彼らの心に大きな喪失感の穴をあけたと思います。またイエスさまを見捨てて逃げたことの罪悪感もあったのではないかと思います。弟子たちは、これからどうしよう、どうなってしまうんだろうと不安と、恐れに心が支配されていた。ほとぼりがさめるまで息をひそめて静かにしていようと思っていたのではないでしょうか。
そんな意気消沈していた弟子たちのただ中に、復活の主イエス・キリストは現れて「あなたがたに平和があるように」と声を掛けられます。復活の主イエスは、平安の挨拶を何度も繰り返し弟子たちに言われていることから、弟子たちのことを愛し、ゆるし、絶えずみ心に留めていること、そして弟子たちに平安のうちに過ごしてほしいという主イエスのあたたかな思いやりが伝わってきます。
そして、復活の主イエスは弟子たちを責めるわけでも、非難するわけでもなく、ご自身の手とわき腹のキズを見せて弟子たちに復活した者と十字架につけられた者が確かに同一のものであることを確認させます。
主イエス・キリストは、何一つ傷のない綺麗な体で復活することもできたと思います。しかし聖書は、イエス・キリストは傷だらけの体で復活したというのです。それは愛する弟子たちに確認させ、確信させ、覚醒させるためでした。主イエスがこの世界に与えられたのも、主イエスが傷だらけになられたのも、いのちを差し出されたのも、そして十字架にかかり復活されたのも、すべては愛する弟子たちのため、この世界のため、私たち一人ひとりのためです。
復活の主イエス・キリストは弟子たちに平和の挨拶を何度もし、ご自身の体を見せて復活を確認させ、確信させ、信仰を覚醒させます。主イエスが弟子たちに求めているのは、弟子のトマスに言ったように「信じないものではなく、信じる者になる(27節)」ということ。つまり主イエスは、弟子たちの信仰を何よりも大切なものとして求めたということです。私の主、私の神への信仰が大切であり、信仰に生かされることを主イエスは望んでおられるのです。まさに「信仰のみ」です。
僕は、牧師になって今年で6年目になります。僕がいつでも思うことは、よく神さまは僕みたいな男を牧師として選んだなということです。神学校に行く前は工場や建設現場で汗と、埃と、砂にまみれて、ロックバンドに夢中になり、ギターばかり弾いていた、そんな男が、神学校に行く道が開かれ、浦和教会に遣わされ、こうして聖壇の上に立たされているんです。神さまが僕を選び、僕を遣わし、僕をここに立たせている。神さまは、僕にいのちを与え、キリストのいのちも与え、永遠のいのちの約束も与え、僕をいまのいままで生かし、福音を伝えるものとしてここに立たせている。だから神さまを信じて、誰に何と言われよとも思いっきり福音を語り、神さまの愛を届け、伝えよう、知らせようと思うのです。そして、95歳の姉妹のように復活信仰に生かされて神さまの愛と栄光をあらわすことのできるものでありたいと思うのです。
復活の主イエス・キリストが弟子たちに、そして私たちに求めるのは31節にもあるように、イエスは神の子キリストであることを信じて、イエスの名によっていのちを受けることなんです。
復活の主イエスが自分を見捨てて逃げ、仲間であることも否定した弟子たちに求めたのは、知力でも、体力でも、能力でもなく、ただ信じない者ではなく、信じる者となること。つまり、わたしの主、わたしの神を信じる確かな信仰でした。
弟子たちは復活の主イエスから平安の挨拶をいただき、そして傷口を見せてもらい、キリストの息吹をかけてもらい、主の愛と、ゆるしと、平安とに満たされ、信仰が強められました。そして、弟子たちは、家にとどまり息をひそめて静かにしているのではなく、息を吹き返して、外に出て大胆にイエス・キリストの十字架と復活の出来事、そこに示された神さまの限りない無い無償の愛と、ゆるしを証ししていくもの、力強く宣べ伝えていくものとなったのです。
今このとき復活の主イエスは私たちに語ります「あなたがたに平和があるように」と。そして不安や恐れに打ち勝つように、主の霊を与えて私たちの信仰を強め、励まし、勇気と、希望とを与えてくださいます。
これからも私たちの主、私たちの神は、私たちにみ言葉をもって語り続け、み霊を通して働きかけ続け、私たちの信仰を強め、守り、導いてくださるでしょう。
私たちは、復活の主イエス・キリストを信じて、すべてをゆだねつつ、復活の信仰に生かされ、心穏やかに、和やかに、柔らかに生きていく者でありたい。そして、それぞれの場で、それぞれの信仰生活を通して、「わたしの主、わたしの神」の深い憐れみ、限りない無償の愛、永遠のいのちの約束を証しし、伝え、届け、知らせ続けていく者でありたいです。
いつでも、いつまでも主の平安がみなさまのうえに、また皆さまと繋がるすべての人々の上に豊かにありますように。