聖霊降臨主日 ヨハネによる福音書15:26~27、16:4b~15
今日はペンテコステ、聖霊降臨祭です。多くの信徒たちは、聖霊が来られたことについて喜び、教会の祭りとしてこの日を過ごしています。しかし、なぜ聖霊が来られたか、来られて何をなさっておられるかについては、深い関心を持っているわけではないようです。私は聖霊がなさることの一つは、信徒の目を開いてくださることだと思います。見えなかったことを見えるようにすること、分からなかったことを分かるようにすることが、聖霊の役割だと思います。聖霊は、私たち信徒が深い信仰の中で、何が神さまの御心なのか、何が正しいことなのかを区別することができるように、導いてくださいます。今日の福音書は、このような聖霊について記録しています。イエスさまは、聖霊のなさることを大きく3つに分けて解説なさいます。第一は証し、第二は明らかにすること、第三は告げることです。このことを通して、信徒は聖霊が与えられる特別なことを経験することができるようになります。
まず、証しをしてくださる聖霊についての言葉です。今日の福音書であるヨハネによる福音書15章26〜27節です。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」ヨハネによる福音書1章では、イエスさまのことが書かれています。「イエスさまは言として神と共におられ、この世を造られた。そして、人々を照らす光、命である。」と書かれています。しかし世の人々は、イエスさまについて知らず、言であるイエスさまを認めませんでした。この世のすべてのことがイエスさまから成ったものですが、世は、イエスさまを受け入れませんでした。聖霊はこのすべてのことをこの世に証しをするのです。イエスさまは神の子として私たちのところに来られ、私たち人間の光と命になられるということを証するのです。同時に、この世がイエスさまを認めなかったことも証するのです。
この聖霊の証しが私たちに教えてくれるのは、この世がイエスさまを否定し、理由もなく受け入れていないということです。そしてこれによってイエスさまに従っている者も、イエスさまと同じ身の上になるというのです。なぜなら、イエスさまの弟子は、イエスさまを否定しているこの世に属していないからです。ある意味では、信徒がこの世に属していないというのは、危険な考えかもしれません。私たちはこの世で生きていて、この世の法律と規則に従っているからです。しかし、同時に私たちは、神の国に属して生きています。私たちは、神の言葉を最優先に思い、主の祈りのように神の国がこの世に臨むことを求めています。だから、私たちは、この世で生きていますが、この世の中に属してはならないのです。世の中での成功、出世、名誉のようなものが、私たちが追求するすべてになってはなりません。イエスさまの教えに従って私たちの隣人を愛し、この世に正義が実現されるように最善を尽くさなければなりません。
信徒の道は、簡単には行けない道だと思います。この世は、イエスさまが行かれた道を認めていませんでした。同じように、私たちが行く道も認めないでしょう。いや、世の論理に反するイエスさまの教えと私たちの信仰は、この世から認められることはないでしょう。それにもかかわらず、私たちがこの道を行くのは、この道が正しいと思っているからでしょう。そして、イエスさまがお遣わしになった聖霊が私たちをこの道に導いているからだと思います。聖霊は、私たちを光と命であるイエスさまのもとに導いてくださるのです。最後に、私たちは信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れるのです。聖霊はこれを私たち信徒に証しておられます。
二番目に、聖霊はこの世を明らかにしてくださいます。明らかにするというのには、いろいろな意味があると思いますが、聖霊が明らかにするというのは、この世の誤りを明らかにするということです。今日の福音書16章8節の言葉です。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」ここで明らかにするという言葉は、原語でエルレンケインという言葉です。この言葉は、「軽蔑する、辱める、暴露する」という言葉として解釈することができますが、多くの神学者たちは、この言葉が今日の福音書では「暴露する」と解釈されると言っています。つまり、聖霊は、世の誤りをすべての人々に暴露するのです。そして世が隠れてきた罪は何か、義は何なのか、裁きは何なのかを明らかにしてくださいます。
今日の福音書9、10、11節には、罪と義と裁きについて書かれています。まず、9節には「罪についてとは、彼らが私を信じないこと」と書かれています。私の考えでは、多くの人々がこの言葉を読むと、「え!イエスを信じないのは罪なの?」と思うかもしれません。しかし、この言葉が指摘しているのは、個人の信仰ではありません。この世がイエスさまに従っていないことを罪だというのです。イエスという存在がこの世から無視され、その教えが拒否されることが罪だというのです。この世は、自分の教えを人々に伝えるために、イエスさまの教えを隠しました。愛と犠牲、平和のようなものより、成功、富の追求、支配のようなものが人々によって求められるように、イエスさまを信じさせないようにしました。だから、人々はイエスさまの教えよりも、世の教えに耳を傾けています。人生の価値を自分の利益だけに置いているのです。しかし、聖霊は、このようなことを明らかにしてくださるのです。このようなことが私たちを罪に引っ張っていくことを教えてくださり、信徒である私たちが何を求めなければならないかを悟らせてくださるのです。
10節をみましょう。 10節は義についての言葉です。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、」と書かれています。この言葉を理解するためには、今日の福音書であるヨハネによる福音書で、「父のもとに行く」という言葉がどのように使われたのかが分かっていなければなりません。イエスさまは弟子たちに「父のもとに行く」という言葉をよく言われたのですが、これはイエスさまがこの地に来られた目的が成し遂げられたことを示しことです。イエスさまは、罪の赦しと神への道を教えてくださるためにこの世に来られました。そして公的な生涯を生きられました。そのため、イエスさまにとって父のもとに行くというのは、すべてのことが完成されたということです。イエスさまの義がこの世に実現され、世はイエスさまの義を防げることができないということです。世は自分の義を立たせましたが、イエスさまの義によって、私たちは救われるのです。そして11節は、この世の支配者が断罪されることを語っています。結局、世は裁かれ、イエスさまが正しかったということがこの世に明らかになるのです。
三番目に、聖霊はこのすべてのことを信徒である私たちにお告げになるのです。今日の福音書13節でイエスさまはこう言われます。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」聖霊は、私たちを導いて真理をことごとく悟らせてくださるのです。何が神さまのお望みになっていることなのか、何に私たちが気を付けなければならないのか、何を求めなければならないのかを教えてくださいます。すべてのことは、聖霊によって明らかになるのです。今の時代、私たちの世界で、イエスさまの道に従って生きることは、容易ではないでしょう。世は続いて発展し、華やかで、強く見えます。しかし、忘れないでください。イエスさまの時代も、世は今と同じでした。時代を問わず、聖霊は、常に動いておられます。常に動いておられる聖霊が今の私たちとも共におられます。聖霊の力、聖霊の導きを信じてください。聖霊は私たちに真理を教えてくださいます。すべてのことを明らかにしてくださいます。聖霊が皆さんと共におられますように。今日洗礼を受け、堅信した人々の上にも、聖霊の満ち溢れる知恵が共にありますように主の御名によって祈ります。アーメン