サンドイッチの言葉から聞く神の愛

聖霊降臨後第5主日 マルコによる福音書5:21~43

 皆様、サンドイッチ、お好きでしょうか。サンドイッチは、忙しい人のために作られた便利な食べ物だと思います。ところが皆さん、皆さんは、この便利な食べ物がどのように作られたか、ご存知でしょうか。誰がパンの中に肉やチーズや野菜などを入れることを考えたのでしょうか。サンドイッチの由来については、いろいろな説があります。マケドニアの帝王アレクサンドロスが出征のために作ったという説、サンドイッチというイギリスの貴族が作ったという説、17世紀オランダの博物学者ジョン・レイが居酒屋の垂木に吊るされている牛肉を薄くスライスして、バターと一緒にパンの中に入れて食べたという記録など…いろいろな説と記録がありますが、ここは教会であり、私たちは信者だから、使徒パウロに大きな影響を与えたヒレルのサンドイッチの説も調べてみましょう。

 ユダヤ人にとって過越の祭は、非常に大事な祭りです。この祭りにユダヤ人たちは、祭儀的な食べ物を晩餐として食べますが、この食べ物の構成は、小羊の肉とマーロール(Maror)と呼ばれる苦菜、マッツァー(Matzo)という酵母を入れないパンです。出エジプト記12章8節にはこう書かれています。「そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。」ユダヤ人たちは、この言葉を守り、過越の祭りになると、この3つの食べ物を食べています。ところがバビロニアタルムード(タルムードはパレスチナタルムードとバビロ二アタルムードで構成されている)によると、1世紀のユダヤ教の律法学者であるヒレルがささげられた羊とマーロールをマッツァーに包んで食べたという記録があります。そして、これがサンドイッチの起源となったという面白い説もあります。

 私がなぜ、こんなにサンドイッチについて話したかというと、今日の福音書は、サンドイッチと関係があるからです。今日の福音書には、サンドイッチが出てくるのではありません。では、なぜサンドイッチを論ずるかと言われると、今日の福音書の仕組みがまるでサンドイッチと同じような仕組みで書かれていたからだと答えます。今日の福音書は、ヤイロという会堂長と12年間、出血の止まらない女についての物語です。ところで、この福音書は、特別にヤイロの話の間に出血の止まらない女の話が入っています。一般的に、福音書に出てくる話の配置を見ると、どのような話でも伝えたい目的があるので、開始と結末が区分されています。しかし、今日の福音書は、会堂長の物語の中に、出血の病を患っている女の話が混ぜ込まれています。多分、マルコによる福音書の著者がこのように書いた目的があるでしょう。それが何なのかを調べてみましょう。

 まず、今日の福音書の先に登場するヤイロという人について調べましょう。ヤイロは会堂長です。そして、彼の娘は大きな病気を患っているようです。今日の福音書22〜23節の御言葉です。「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。『わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。』」会堂長は、礼拝を準備し、会堂を管理して責任を負っていました。だから会堂長は、ラビ、律法学者、ファリサイ派の人々と良い関係を結んでいて、また、会堂長は、自分が属している会堂を代表して活動していました。ところが、今日の福音書で会堂長ヤイロは、イエスさまのところに来て、ひれ伏しました。そして、自分の娘を癒してくださいと願いました。おそらく、このことを喜ぶ律法学者やファリサイ派の人々、会堂員は多くなかったと思います。

 イエスさまは会堂長ヤイロの願いを受けられ、ヤイロの家に向かって行かれます。そこで、大勢の群衆も、イエスさまに従い、押し迫って来ました。この時、イエスさまのことを聞いた長血の女が群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスさまの服に手を触れました。この女については25〜26節に書かれています。「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」女は、自分の病気を癒すために最善を尽くしたようです。しかし、病気を癒すことはできなかったし、ひどく苦しめられました。だから、人々の中に紛れ込んで来て、イエスさまの服に触れたのです。28節の言葉のように「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからです。私はこの女の心や姿を見て、会堂長ヤイロの状況も彼女と同じだったのではないかと思いました。今日の福音書がサンドイッチの仕組みで書かれていることを念頭に置くなら、ヤイロも娘の病気を癒すために、多くの医師と出会うなど最善を尽くしましたが、結局は病気を解決できず、イエスさまのところに来たのだと思います。イエスさまのところに来るまでは、両者とも多くの悩みや心配があったでしょう。ヤイロは会堂を代表する会堂長として、女は、法律で汚れていると定めた出血をする人として、イエスさまのところに来るまでは大変だったと思います。しかし、最終的には、彼らはイエスさまのところに来て、イエスさまは彼らに恵みを与えてくださいました。

 29節には、女が癒されたことが書かれていて、30節には、イエスさまがご自分から力が出て行ったことを気づいたと書かれています。イエスさまはご自分の服に触れた人を見つけようとして、辺りを見回しておられると、女はヤイロのように、イエスさまの前にひれ伏しました。そして、すべてのことをありのままに話しました。するとイエスさまは、こう言われます。 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」律法によると、出血によって汚れた人は、他の人に触れてはいけません。なぜなら触れられた人も汚れるからです。しかし、イエスさまは汚れませんでした。むしろ女性が病気からきれいになりました。律法も病気も、イエスさまの前では何の力も振るうことができませんでした。イエスさまは汚れた女がご自分の服に触れたことを信仰として思われ、女は癒されました。律法の中では汚れた人が、イエスさまの中では救われた人になったのです。

 イエスさまが女と一緒にいた時に、会堂長の家から人々が来ました。そしてこのように言います。35節の言葉です。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』」イエスさまと一緒にいた会堂長ヤイロは、自分の目の前で12年間、誰も癒すことができなかった出血の病気が癒されることを見ました。このことはヤイロに希望を与えたのだと思います。しかし、自分の家から来た人々によって、希望は絶望に変わりました。彼らは娘の死を知らせ、すべてのことは終わったようでした。

 すべてが終わったと思われた状況で、イエスさまはヤイロに特別な言葉をおかけになります。36節の言葉です。「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた。」ヤイロの状況は、12年間、出血が止まらなかった女よりひどくなっていました。死は、律法によってもどうにもならない、人にとっては最悪の状況です。しかし、イエスさまは「ただ、信じなさい」と言われました。死の状況の中で信仰を求められたのです。そして会堂長の家に入られたイエスさまは、人々に「子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われます。この言葉を聞いた人々はあざ笑いました。私も同じ状況だったら、笑ったと思います。しかし、イエスさまにとって、死と眠ることには違うところはありませんでした。

 40節には、イエスさまが子供の親と3人の弟子を連れて、子供がいるところに入ったと書かれています。そして41節には、イエスさまは子供の手を取ったと書かれています。律法によると、遺体に触れた人は汚れると書かれています。だから、人々は、遺体の周りに行くにもしませんでした。しかし、イエスさまは、子供の遺体がある所に行き、子供の手も取りました。これでは、律法を信じる人々にとっては、イエスさまは汚れるしかありませんでした。しかし、長血の女の状況と同じく、イエスさまは汚れませんでした。子供が起き上がって、歩きだしたからです。「死んだのではない。眠っているのだ。」とおっしゃったイエスさまの言葉には、理由がありました。死も、律法も、イエスさまを妨げることはできませんでした。

 今日の福音書は、物語の中に他の物語を入れて構成されていますが、語りたいことは同じだと思います。誰でも、会堂長でも、長血によって汚れた女でも、律法でも、死でも、イエスさまの愛を妨げることはできないということです。ローマの信徒への手紙8章38〜39節で、使徒パウロはこう言います。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト·イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」私たちに何が起こるか、何が私たちに迫ってくるかは、私たちは知りません。しかし、一つだけ確かなことは、イエスさまが私たちと共におられるということです。このことを信じて、イエスさまの言葉に従って行かれる皆様になりますように。私たちの信仰がさらに強くなりますように、主の御名によって祈ります。アーメン