聖霊降臨後第13主日 ヨハネによる福音書6:56~69
使徒パウロはローマの信徒への手紙7章24節で、自分を惨めな人間だと言います。それは自分の中にある罪の法則、すなわち、自分の考えと欲が神さまの法則といつも戦うからです。そして時には、この罪の法則が自分をとりこにすることを感じるからです。このような霊的な戦いは、使徒パウロだけに限られているのではありません。私たちにも、キリストに従うすべての人に、信仰による霊的な戦いがあります。信仰が私たちを神さまの言葉に導くので、私たちの中では、信仰と欲、神の法則と罪の法則の戦いが起きているのです。この戦いは、一回、二回の勝ちや負けで終わることではありません。私たちの生涯の中でいつも起こっていることであり、私たちが神の国に入るまで続くのです。この戦いに最後まで勝利する皆さんになりますように願います。
今日の福音書でイエスさまは、ご自分の教えを聞くために来た人々に、特別な話をなさいます。この話は、今、私たちにとっては、聖餐の基礎となる言葉であり、当時、イエスさまの話を聞いていた人にとっては、救いのメッセージでした。しかし、当時のユダヤ人たちは、この言葉を受け入れませんでした。イエスさまの話は、当時のユダヤ教の教えとは全く違っていただけでなく、自分たちの願いとも合わないことだったからです。イエスさまはご自分のもとに来たユダヤ人たちと弟子たちにこう言われます。今日の福音書56〜57節の言葉です。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」
この言葉は、聖餐の恵みがどのように私たちの内にとどまることになるかを教えてくれる言葉です。イエスさまの肉と血を通して、私たちはイエスさまと一つになり、イエスさまと一つになった私たちは、神とも交わることができるようになるというのです。私たちは罪人だから、神さまと直接交わることができません。聖書の言葉を信じていない多くの人々は、この言葉、「人間は罪人だ」という言葉に違和感を感じると思います。法律を犯すような罪を犯したことがないのに、なぜ教会は、「人間を罪人だ」と語るのかを理解することができません。しかし、教会が語っている罪が何なのかが分かったら、罪という言葉が与える違和感がある程度解消されると思います。教会で語っている罪は、社会的、倫理的な犯罪だけを言うのではありません。簡単に言うと、神さまの言葉に反するすべてのものが教会が語る罪です。だから自分だけのための人生、自分のための主張と欲も罪だと規定されます。なぜなら、自分だけのために行うすべてのことが、万民に良い結果をもたらすことができないからです。私たち人間は、これを社会的な構造による競争としてみて、生き残るための手段として認めていますが、教会の立場から見ると、自分のために他人を犠牲にする利己的なものとしてみるしかありません。
しかし皮肉なことに、私たちは、教会が語っている罪から離れて生きることはできません。クリスチャンも競争の社会の中で生きており、人間の本能は自分のための生活を追求しているので、これによってやむを得ず、私たちは私たちの隣人に被害を与えています。罪を犯さないように努力することはできますが、でも、完全に罪から逃れることはできません。だから私たちは罪人であり、罪人である私たちは、神さまと直接交わることができないのです。しかしイエスさまは、このような私たちに特別な恵みを与えてくださいました。それは私たちが聖餐と呼んでいるものです。イエスさまは聖餐を通して、私たちがイエスさまの内におり、イエスさまが私たちの内におられることができるようにしてくださいました。そして私たちは、イエスさまの中におられる神さまとも交わることができるようになりました。私たちに罪があるので、神さまと直接交わることはできませんが、イエスさまを通して神さまと交わることができるようになったのです。これが聖餐の恵みであり、今日の福音書が教えてくれる福音なのです。
しかし、当時のイエスさまのこの言葉は、イエスさまのもとに来た人々だけでなく、イエスさまに従っていた弟子たちにもつまずきとなる言葉でした。参考として申し上げますと、ここでの弟子たちは、イエスさまの12弟子たちを除いた他の弟子たちです。私たちは、「イエスさまの弟子」と言えば、12人の使徒たちを思い出しますが、イエスさまの弟子たちは、12人の使徒たちのほかにも、多くいました。マルタ、マリア、マグダラのマリア、ラザロのような人々も、イエスさまの弟子でした。コリントの信徒への手紙15章6節でも、使徒パウロは、イエスさまの弟子たちが500人以上いたと語っています。12人の使徒たち以外にも、多くの人々がイエスさまの弟子であり、今日の福音書の弟子たちは、12人の使徒たち以外の弟子たちを指しているのです。
本文に戻って、多くのイエスさまの弟子たちは、イエスさまのこの言葉、ご自分の肉と血を食べ、飲みなさいという言葉を受け入れませんでした。彼らはこのように言いました。60節の言葉です。「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」一部の学者は、弟子たちがイエスさまの言葉を理解していなかったと言います。ご自分の肉と血を食べ、飲みなさいという言葉をよく理解することができなかったので、この言葉を「ひどい話だ」と言ったそうです。しかし私は、彼らがイエスさまの言葉を文字通り受け入れたり、理解できなかったりしたとは思いません。旧約聖書の雅歌と箴言のような知恵文学書を読んでみると、このイエスさまの言葉のような表現が多く書かれているからです。詩篇19篇にも、神さまの戒めを蜂の巣の滴りで表現しています。そのため、当時の人々もイエスさまの肉と血に対する言葉くらいは、十分に理解することができただろうと思います。
しかし弟子たちは、イエスさまの言葉を「ひどい話だ」と言いました。この言葉は、イエスさまの言葉を理解することができないということよりは、イエスさまの言葉を受け入れないという意味だと思います。弟子たちは、イエスさまからマンナのような肉的なものを望みました。イエスさまを通して、肉的で、人間的な栄光が自分に与えられることを望みました。しかしイエスさまは、このような弟子たちに霊と永遠の命を言われました。永遠の命を持つことも、律法を守るのではなく、イエスさまご自分による永遠の命を言われました。お互いが望んでいること、お互いに願っていることが違ったのです。だから弟子たちは、イエスさまの言葉を「ひどい話だ」と貶めました。イエスさまはこのような弟子たちに、肉は何の役にも立たないことを言われます。肉ではなく、霊が命を与えるものであることを、イエスさま自身がおっしゃることが霊であり、命であることを言われます。しかし弟子たちは、イエスさまの言葉を受け入れませんでした。今日の福音書66節では、「このために、弟子たちの多くが離れ去った」と書かれています。彼らにとっては、彼らが望んでいる肉の栄光が、イエスさまがおっしゃる霊と永遠の命よりも大切だったからだと思います。
信仰をもつようになったきっかけは、人によってみんな異なるでしょう。みんなが違うきっかけ又は違う目的を持って、イエスさまに従うことになったと思います。しかし、真の信仰を持つためには、そのきっかけにとどまっていてはなりません。自分の学びと考え、経験などを続けて主張するなら、結局は、イエスさまから離れるようになるのです。その代表的な人物が、今日の福音書64節が示しているイスカリオテのユダです。自分の考えを捨てられないイスカリオテのユダは、最終的に、イエスさまを裏切りました。だから使徒パウロは、自分の中で罪の法則が神の法則といつも戦っていると言ったのです。霊は肉と妥協しません。教会が語っている「人間は罪人だ」ということも、ただ霊の中でのみ解釈され、受け入れられることです。肉の栄光を望む者は、自らが罪人であることも、聖書の言葉によって罪人になることも、認めないからです。
だからイエスさまは、私たち信仰の者に聖餐という恵みを与えてくださいました。聖餐を通してご自分と交わることができるようになさいました。そしてこの交わりの中で、私たちは、肉ではなく、霊を選ぶことになるのです。イエスさまと共にいた12人の弟子たちがイエスさまの道を選んだように、聖餐に与る私たちも、イエスさまを選ぶことになるでしょう。様々な場面で岐路に立つ弟子たちは、聖餐によって、自分の学びと考え、経験などを捨てて、永遠の命であるイエスさまに従うことになるのです。それが、すなわち、そのような結果が、現在行われている聖餐の力、聖餐の恵みなのです。イエスさまの肉と血がこの世に属して生きている私たちを正しい道に導かれますように。弟子の分け目で、肉から離れ、永遠の命を選ばせてくださいますように、主の御名によって祈ります。アーメン