聖霊降臨後第14主日
マルコによる福音書7:1~8、14~15、21~23
最近のニュースでイスラム原理主義のタリバンがアフガニスタンの首都カブールを制圧し、街中が混乱している様子と、女性や子どもたちが不安と恐れに怯える表情が映し出されていました。
タリバン幹部は記者会見で、イスラム法に基づいた国家をつくるということを話していました。「イスラム」とは唯一の神に絶対服従という意味ですから、イスラム教の正典であり「神の言葉」とされるコーランに記されていることを彼らは厳格に、忠実に、遵守し、実践しようとしているわけです。彼らは、神への服従こそが正しい道であり、それによってしか救いの道はありえないと信じている人々です。
2016年7月にバングラデシュのダッカでイスラム過激派のテロによって日本人7人を含む多くの人のいのちが奪われた事件があました。
殺害された日本人の一人は、バングラデシュは親日的な国であるという理解から日本人ということがわかってもらえれば助けてもらえるかもしれないという思からでしょう、「私は日本人だ」と訴えたそうです。しかし、イスラム過激派には全く通用せずに殺害されました。彼らにとって親日とか非親日とかということは通用しません。神の言葉であるコーランには「不信仰者と出会った時はその首を打ち切れ」と記されているといいますから、「私は日本人です」と訴えた日本人を殺害したイスラム過激派にとって親日とか非親日とかどうでもいいことで、神の言葉であるコーランに記されている言葉に従い異教徒の不信仰者として殺害されたのです。
イスラム教に回心しないもの、改宗しないものに対しては二つの選択があるそうです。一つは殺害。もう一つは奴隷にするということだそうです。
彼らがジハードというテロ行為に及ぶのはもちろんコーランに記されてあるからです。しかもジハードすればこれまでの不敬行為、不道徳行為のすべてが清算され天国に直行できる、ということが記されているといわれます。
真剣に神の言葉に従おうとする人々だからこそ、コーランで禁止されている酒を飲んでしまったとか、豚肉を食べてしまった、義務である一日5回の礼拝をしなかった、などなどコーランに記されていることを守れなかったとなれば、死後神の前で裁きを受けて地獄行きになるのではなかと不安で仕方がない、心に平安がないのでしょう。でも一発逆転のチャンスがある。それがジハードを実行することなのです。これまで積み重ねてきた悪行を、怠りを、最も確実なかたちで精算できるのが最高善といわれるジハードなのだとコーランはいうのです。ですから神の言葉に真剣に従おうとするイスラムの人の中にはジハードを実行して確かな救いを得ようとするものもいるわけです。
イスラムの人も、私たちクリスチャンも唯一の神を信仰しています。宇宙万物すべてのものを創造し、私たちにいのちを与えてくださったいのちの源である神さまを信じています。しかし、決定的に違うことがあります。それはイスラムの教えには「救い主」がいないということ、神さまからの福音がない、キリストがいないということです。
私たちが信じて、感謝と喜びをもって耳を傾けている福音書には神さまのこの世界と私たち一人ひとりに向けられている深い憐れみと、尽きることのない愛と、ゆるしと、救いとがはっきりと示されています。
この世界と私たち人間の救いは、私たち人間の努力でも、修行でも、善行でも、ジハードでも成し得ないし、何の保証も、約束もありません。私たちは、神さまが私たちの救いのために与えてくださった、差し出してくださったみ子イエス・キリストが十字架の死によって救いを成し遂げてくださった、神さまの計り知れない恵みと、限りない愛を信じて、心から感謝して、受け取るだけなのです。
今日の福音書でユダヤの律法学者とファリサイ派の人々が、つまり宗教指導者たちが出てきますが、彼らは神の言葉である「律法」を厳格に守り、従うことで神さまに受け入れられ、救いに与ることができるのだと信じていました。
しかし、彼らユダヤの宗教指導者たちは神の言葉の本質を見誤り、律法を利用して自分の正しさを見せびらかしたり、細かいことでも守れない人に対しては厳しく非難したり、断罪したりして、他者に対する思いやりに欠け、寛大さ、寛容さが失われていました。そのような彼らをイエスさまは厳しく戒め、否を突きつけるんです。
神の言葉である律法は、自己正当化するために用いたり、悪を覆い隠すために用いたり、人を非難し、断罪するために用いたりするものではありません。神の言葉は、私という人間の罪深さをはっきりと示し、私には、私たちにはゆるしが必要なんだ、憐れみが必要なんだ、そして愛が必要なんだ、ということを強く感じとらせ、神さまの深い憐れみと、愛のもとへと導くのです。神さまの言葉は、私たちを神さまの限りない愛のもとへと招き導くのです。
イエスさまはこの先、イエスさまを非難し、拒絶し、断罪し、十字架につける宗教指導者たちに向かって、殺意も、悪意も、悪口、傲慢、無分別などみんな人間の心から出てくるのだと鋭い言葉を向けました。もちろん、これらは「人間の心から」出てくるとイエスさまは言われてますから誰の心の中にもあることですし、決して否定できない自分がいることも事実でしょう。
だれも「自分は正しい人間だ」と胸を張って言える人はいないでしょう。日本人も、ユダヤ人も、アフガニスタン人も関係ない、国、民族、宗教、性別も関係ない、みんな弱さ、脆さ、欠け、破れを持っていて、限界のある同じ人間です。だから、助けが必要です。ゆるしが、いやしが、愛が必要なのです。そして誰もがみんな救いを必要としているでしょう。
神の名を語って、神の言葉を用いて、人が人の心や体を傷つけたり、乏しめたり、奪ったりすることを神さまは望んでいません。神さまの言葉を真剣に守り、聞き従うというのなら、神の言葉、思い、愛そのものであるイエス・キリストに真剣に向き合い、聞き従うこと、キリスト共に愛をもって「互いに愛し合い(ヨハネ15:12)」生きることこそ神さまが私たちに求めていることです。
イエスさまは、私たち人間の「心はわたしから遠く離れている(6節)」と言われました。ただ、しかし神のみ心はこの世界からも私からも、あなたからも決して離れることはないのです。神さまはいつでもあなたのことを心に留めておられます。その確かな証、保証、約束は、この世界と私たちの救いのために与えられたみ子イエス・キリストのいのちを通してはっきりと現わされたのです。神さまは私たちのことをいつもみ心に留めて、心配り、心砕き、神の言葉であり、思いであり、愛そのものであるイエス・キリストを通して私たちに愛と、希望、平安、救いを与えたいのです。
それでも遠く離れようとする私たちの心に神さまは、聖書のみ言葉を通して、教会を通して、さまざまな出来事や出会いを通して語りかけ続け、働きかけ続け、神さまの愛と希望と平安と救いのもとへと招き続けてくださるのです。
私たちは、神さまがイエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して示された限りない無償の愛と、ゆるしと、救いの約束を信じて、感謝して受け止め、いつも思い起こしながら、思い巡らしながら安心して、心穏やかに、心和やかに生きていきたいです。
そして、私たち一人ひとりに絶えず向けられている神さまの深いのあわれみと、限りない愛と、ゆるしとを想い起しながら、思い巡らしながら、支え合い、助け合い、愛し合い生きるものでありたい。そして、他者へのあわれみと、愛と、ゆるしをもって生きる姿を通してキリストを証し、福音を伝え、届け、知らせていく者でありたいです。
みなさんの心にいつもキリストの愛と、希望と、平安がありますようにお祈りします。