聖霊降臨後第20主日 マルコによる福音書10:17-31
2〜3年の前のことです。ある日、長男が私に「パパ、僕、日本人でしょう?」と尋ねました。この質問を聞いて、少し考えてみると、十分に自分は日本人だと思うことができるようだと思いました。幼稚園の先生も日本人、友人も日本人、隣の人も日本人、教会に行っても、お店に行っても、病院に行っても会っている人がみんな日本人だから、自分は日本人だと思うことも無理ではないと思いました。それで、よく説明してあげました。なぜ、私たちの家族が日本に来るようになったか、パパが何をしている人なのか、私たちの家族みんなは日本人ではなく、韓国人であることを説明しました。考えてみると、私も日本の生活に慣れて、普段は私が韓国人であることを認識しつつ暮らしているわけではありません。長い間に会っている人々はみんな日本人であり、どこに行っても日本人に会っているので、あまり気にせずに暮らしています。皆様と同じ法律を守り、法律に従って税金を払い、同じ支援を受けています。日常生活では、大きな違いがないということです。しかし、すべてのことが同じというわけではありません。例えば、私は3年に一回、ビザの延長のため、入国管理局に行っています。そして、パスポートの更新のためには、韓国の領事館までに行かなければなりません。皆様と同じ国に住んでおり、同じ法律を守っていますが、同じことを守っているとしても、同じ国に属しているのではありません。うちの子供たちも、二十歳になったら、ここの友人とは違って、軍隊に行くことになるでしょう。属している国が違うからですね。
今日の福音書には、イエスさまと金持ちの男との会話、イエスさまと弟子たちとの会話が書かれています。そして、この会話は、私たちに律法を守ることと神さまの国に属していることの違いを教えていると思います。それでは、イエスさまと金持ちの男の会話を中心にして見てみましょう。このことは、ユダヤでイエスさまがエルサレムに行かれるために出かけたところに起こったことです。あるお金持ちがイエスさまのもとに来て、永遠の命を受け継ぐためには、何をすればいいのかを尋ねます。そして、イエスさまとお金持ちの間では、いろいろな会話がありました。イエスさまは、会話の最後に持っている物を売り払い、貧しい人に施して、ご自分に従いなさいと言われます。しかしこの男は、この言葉によって、気を落とし、悲しみながら立ち去りました。なぜなら、彼はたくさんの財産を持っていたからです。
私は、この言葉は本当に理解しにくい言葉だと思います。イエスさまがお金持ちに強く言われたことは、読者に違和感を与えることもあるとも思います。しかし、この言葉が示しているのは、持っている財産をすべて貧しい人に施して、イエスさまに従いなさいということにあるのではありません。もし、財産を施すのがこの言葉の目的だったら、私たちもイエスさまの言葉を破っていることであり、天国に入ることはできなくなるでしょう。イエスさまはご自分を「善い先生」と呼んでいるお金持ちにこのように答えられます。18節の言葉です。「イエスは言われた。『なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。』」イエスさまは、ご自分に「善い」と言っているお金持ちに、神おひとりだけが善い者だと答えられました。それでは、イエスさまご自分は善い者ではないという意味でしょうか。そうではないでしょう。イエスさまがこのような答えをなさったことには理由があるでしょう。イエスさまはお金持ちが言った「善い」という意味が、ご自分の行いによって始まったことであることをご存知でした。イエスさまの善い行い、つまり、病人を癒し、御言葉を教え、いろいろな奇跡を起こすことを見たお金持ちは、イエスさまを「善い」と言ったのです。しかしイエスさまは、ご自分の行いが「善い」ものではなく、神さまだけが「善い」と言われます。すなわち、真の善いものは、ご自分が行っていた行いではなく、ご自分をお遣わしになった神さまだというのです。そしてイエスさまは、お金持ちに神さまの掟である十戒について言われます。ところで面白いことは、この十戒の言葉には、イエスさまのご意図が隠されていたというのです。
金持ちの男は、他のユダヤ人のように、律法に属して生きている人でした。だから彼は、イエスさまを律法の目を通して見て、律法の理解と行いの中で、イエスさまを受け入れようとしていました。しかし、イエスさまは、律法の中におられる方ではありません。この世に来られたことも律法のために来られたのではありません。律法より大きいこと、神さまの善と愛をみんなに伝えるために、私たちのところに来られました。そして律法を知っている人、知らない人に関係なく、みんなを救うために十字架につけられました。そのため、イエスさまにとって律法は、重要なものではありませんでした。また、律法を守ること、善を行うこと、これらのことが私たちの救いに関係があるものでもありません。私たちが大切に思わなければならないのは、神さまは「善い」ということを信じることと、この「善い」ことが現れたキリストなのです。だから、イエスさまはこれを教えてくださるために、逆に律法について言われたのだと思います。律法を守ることの限界を教えてくださるためです。19節の言葉です。「『殺すな、姦淫するな、盜むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
イエスさまは「という掟をあなたは知っているはずだ」とおっしゃいました。私はイエスさまがわざとお金持ちが分かって、守っている掟だけをおっしゃったと思います。イエスさまがおっしゃったこの掟には特別な点があります。それは、イエスさまが一つのセクションの掟についてだけおっしゃったということです。十戒は、大きく2つのセクションに分かれています。一つは、自分と神さま、もう一つは、自分と隣人です。イエスさまが今日の福音書でおっしゃったのは、二番目のセクションである自分と隣人との掟です。そして、この二番目のセクションは、目に見える行いで構成されているものです。イエスさまは行いに構成された掟だけをお金持ちに言われ(19節)、金持ちは、この掟は子供の時から守ってきた(20節)と答えます。すると、イエスさまはお金持ちにこう言われます。21節の言葉です。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」
イエスさまはお金持ちを見つめ、慈しんで言われたと21節は述べています。それは、彼がお金持ちであるにもかかわらず、掟が禁じていることを守り、節制ある生活をしてきたということがお分かりになったということです。しかし、だからといって、彼の行いが完璧だったというのではありません。彼は「してはいけない、しなければならない」という掟の中だけで、努力しました。この努力が十戒の本来の目的ではないでしょう。私は十戒というものは、人間が社会を構成して維持するために守らなければならない最小限のルールだと思います。そして、この十戒を基にして、神さまと隣人を愛すること、これがイスラエルの民に十戒が与えられた目的だったと思います。しかし、当時の人々は、十戒を守ることを自慢し、これによって、自分の義を表して、十戒を守れない人々を裁きました。さらに当時のユダヤ人たちには財産について特別な考え方がありました。自分の財産が多くなるのが、神さまから祝福された証拠だと思っていたのです。そして金持ちだけでなく、イエスさまの弟子たちも同じ考えをしていました。今日の福音書24〜25節で、イエスさまは弟子たちにこう言われます。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」この言葉に弟子たちはこう反応します。26節の言葉です。「弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。」このような反応は、弟子たちもお金持ちと同じ思いだったということを示しています。
しかし、これは神さまの御心ではありませんでした。掟を守り、この世でお金持ちとして生きるのは、神さまが十戒を与えられた目的ではありませんでした。それで、イエスさまは、金持ちの男に持ち物を売り払って、貧しい人々に施しなさいと言われます。それは神さまの御心であり、天に富を積むことになるからです。そして、ご自分に従いなさいと言われます。金持ちが望んでいること、永遠の命を受け継ぐために何をすれば良いのかを教えてくださったのです。しかし、金持ちの男は、イエスさまの言葉に気を落として悲しみながら立ち去りました。自分の考えと違い、自分が守ってきたことと違ったからでしょう。結局、彼は天に富を積むことよりは、この世に積まれている富を守ることを選択しました。
金持ちの男は律法を守ること、富や奇跡のように目に見えることが良いものだと思いました。しかし、イエスさまは掟を守る行いだけでは、永遠の命を受け継ぐことができないと言われます。永遠の命は、掟を守る人ではなく、神さまに属する者に与えられるものです。神さまの善さを信じる者、善い神さまがお遣わしになったイエスさまを受け入れる者には、永遠の命が与えられるのです。神さまの国は、守る者のものではなく、属する者のものだからです。それで、イエスさまは「だれが救われるのだろうか」と互いに話していた弟子たちに「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ(27節)」と言われます。すべてのことは、善い神さまがなさいます。神さまの善さは、律法を守ることよりもまさっています。その善さが私たちを永遠の命に導いてくださいますように。神さまの言葉を守る私たちではなく、言葉に属する私たちはなりますように、主の御名によって祈ります。アーメン