マルコによる福音書3章20~30節
信仰の現住所。今、わたしがいるところはどこでしょうか。
本日朗読された旧約聖書の創世記3章には、神さまの戒めを破って、神さまから遠く離れていく人間と、その人間を呼ばれる神さまが描かれています。
「どこにいるのか」。
この神さまの呼びかけは、物理的な呼びかけではりません。神さまの戒めを破った二人は木の後ろに隠れていました。神さまは、それがわからなくて、「どこにいるのか」と二人に尋ねているのではないのです。
神さまは、今、自分のありのままの姿を恥ずかしいと思って隠れている人間を探しているのです。隠れようとする人、隠れるしかない、尊厳を失ってしまった人、心に闇を抱えてしまった人、このような人に神さまは心を留めておられるのです。「どこにいるのか」「あなたの魂は今どこをさ迷っているのか」と呼んでおられるのです。
人は神さまから離れていくとき、幸せを失います。人が本当に幸せを失うのは、お金や財産を失うときではありません。健康を失うときでもありません。愛するものを失うときでもない。本当の不幸とは、神さまから離れることです。神さまから離れていくとき、人は、隠れようとします。自分の弱さやみじめさを隠したいからです。
人は、神さまの戒めを破って初めて闇の世界を知りました。闇の世界というのは、善と悪を知るという知識の世界です。蛇にそそのかされて、食べてはいけないと命じられた木からとって食べて、そこで彼らは善と悪を見分ける知識人となりました。しかし、その知識とは、本当の意味で善と悪を区別できる知識だったのでしょうか。いいえ、それはこの世の、人間の視点からとらえただけ知識、ただの情報としての知識、自分が裸であることを教える知識、しかし、その裸の自分をどうしたらいいのかは教えてくれない知識です。
それは、まるで色眼鏡をかけて物事を見て判断するようなものです。
今日の福音書はそのことを良く現しています。
色眼鏡をかけた人たちがイエスさまのことをベルゼブルに取りつかれていると言い始めました。律法学者たちは律法の専門家です。当時の社会で重んじられていた知識人です。彼らはイエスを理解することができませんでした。彼らの知識の範囲では、イエスがもっている力を言い当てることができなかったのです。ですから、悪魔の頭(かしら)の力を借りているといい始めたのです。
善と悪を区別していて、イエスは悪だ、イエスは悪いやつだと。つまり、自分たちと異なる行動をする、または今まで見たことのないことをする部外者は、悪い者だと位置づけるのです。
神さまから離れた世界では、こういう区別の仕方で、平気で弱い人をいじめ、貧しい人や障がい者や外国人を切り離して、差別します。さらには、仲間だといいながらも、少し変わっていれば切り捨てようとします。同じ色にならなければ、仲間に入れないという。
そのように考える律法学者がたくさんいたのです。彼らは、自分たちこそが神のことをいちばん知っていると自負する知識人なのです。
わたしにも、彼らと同じように色眼鏡をかけるときがあります。自分の思い通りに物事を進めようとするときです。思うとおりにならなければ、苦しくなります。苦しくなってわかります。今、自分が、神さまから遠く離れているということを。最も近くにいる隣人を切り捨てて、自分だけにとって気持ちの言いところを独占しようとしていることを。欲望の固まりですね。
わたしたちは、悲しいことに、色眼鏡をかけるしかない存在だと思います。しかし、大切なことは、自分が色眼鏡をかけてしか人を見ることができない者であると知り、そういう者なのだと認めることです。自分が色眼鏡をかけていることを知っていれば、相手の本当の姿に心を向けることができます。
しかし、人は、相手を知りたくありません。相手を知るよりは、自分の中の知識を通して相手を判断したいのです。律法学者になりたのです。知識人になりたいのです。そのとき、人は自分が色眼鏡をかけていることを忘れます。
今日、イエスさまはこうわたしたちに告げられます。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28-29節)
「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
聖霊は人を救います。聖霊は人を愛します。聖霊は人を生かします。聖霊は、人といっしょにいるときの幸せを教えます。聖霊は、貧しいところで働きます。その聖霊を冒涜するということはゆるされないのです。
それは、人に向けられた神さまの愛を拒もうとする行為ではないでしょうか。神さまは、ご自分の命を差し出しすほど、人が生きることを願って愛される方です。その方の愛に逆(さか)らい、神さまから人を離し、人が生きることを妨げること、これが聖霊を冒涜するということなのでしょう。それは、隣人を排除した生き方であり、一匹狼の世界を作って生きるということでしょう。
隣人を排除するということは、神さまを排除するということです。特に、自分と合わない人を排除するということは、分裂を起こし、戦争を起こすことにつながります。そこまでも、人は、自分に取って都合の悪い人を徹底して切り離そうとします。この世の知識がそう教えるからです。
小さいときから競争をして勝ち抜くように、優れものが成功し劣ったものは負けるというような考え方の中で私たちは育ってきました。表面では隣り人だから仲良くすること、友達だから大切にすることを言いながらも、みんな競争相手です。ですから、常に、人と区別する作業をしているといっても過言ではないのかもしれません。だけど、聖書は、イエスさまは、それは、神さまの愛を逆らって生きること、聖霊の働きを逆らって生きることなのだというのです。
神さまを私たちの生活の中で見出す方法は、祈りだけでではできません。わたしたちは、隣人を通して神さまを見るのです。それも、自分がもっとも嫌いな人、苦手な人の中に、神さまがおられるのです。そのような人こそ、わたしの姿をいちばん良く映してくれる鏡のような人であり、神さまのおられる場所なのです。ですから、告白するのです。あなたの中にわたしは神さまを見るのだと、あなたがいてこそわたしは存在するのだと。
さあ、今、わたしがどこら辺を歩いているのか、見えるでしょうか。今、神さまに、「どこにいるのか」と呼ばれたら、「ここにいます、隣人の傍に、隣人と一緒にいます」と、信仰の現住所が言えるでしょうか。
隣人とのつながりの中で神を見る人は、幸せな人です。この世が与えることのできない宝をもっていることになります。