人生の旅

降誕節第1主日 ルカによる福音書2章41~56

 みなさん、もしも、明日この世から自分がいなくなると分かったとき、自分の子どもや大切な人に何か一つプレゼントしてあげることができるとしたら、何をあげますか。

 僕はいろいろ考えましたが、子どもたちにはやはり聖書をプレゼントしたいと思いました。それも自分が使っていた聖書に、言葉を添えて子どもたちに残していなくなりたいと思います。

 人生いろんなことがあるときに聖書のみ言葉が必ず支えとなる、助けとなる、励ましに、慰めになることを知っているし、現に僕自身聖書のみ言葉に支えられ、助けられ、救われた体験をしてきたからです。

12歳のイエスさまは神さまのみ心にいつも聴いて、神と人とに愛されて育ったと言います。そんな風に、自分の子どもたちも神さまのみ心に聴いて、神と人とに愛される、そして神と人とを愛する人生を送ってもらえたらいいなぁと思います。

もちろん、今を生きる私たちも神さまのみ言葉に耳を傾けながら、神さまと人とに愛される、そして神と人とを愛するそのような人生を送ることができたらと思うのです。

今日の福音書で、イエスさまが12歳のときの出来事が記されています。ユダヤの習慣では13歳なると大人として認められるということです。ユダヤの律法では13歳になった男性は過越祭などの重要な祝祭のときにはエルサレム神殿に行き、お祝いをしなければならないそうです。イエスさまと家族は毎年過越し祭にはエルサレムの神殿にお祝いに行って律法の義務をしっかりと果たしていたと聖書は言います。

そして事件は起こりました。エルサレムから帰って来た家族はイエスさまがいないことに気づくのです。イエスさま行方不明事件です。

当然家族は探し回ります。子どもが行方不明なったりしたら、ということを考えると、ヨセフとマリアはもう必死になってイエスさまのことを捜しただろうなと思います。そして三日の後にやっとイエスさまが神殿の境内にいるのを発見しました。両親は、イエスさまを見つけたとき飛び上がって喜んだのではないでしょか。

そんな両親むかってイエスさまはこう言いました「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか(49節)」と。

この言葉は、ルカ福音書でイエスさまが語った最初の言葉です。必死に捜しまわって、やっと見つけた親に向かっての言葉ですが、何のあたたかみもない、とても冷たい言葉として響いてきます。

イエスさまはやさしさのない、親の気持ちを汲み取ることもできない冷たい人物であったのか。決してそうではないでしょう。この後聖書はイエスさまが両親に仕えて暮らしたこと、神と人とに愛されたとちゃんと記していますから、両親にも、人びとからも愛される、やさしさ、思いやり、あたたかさを持っていたとことは十分にわかります。

であれば、どうしてあのような言葉をイエスさまは口にされたのだろうかと思うのです。

こう考えることができると思います。ユダヤの律法では13歳には大人として認められ成人としての歩みを始めるわけです。だから、イエスさまは、これから成人として、独り立ちしていく、自分の責務を自覚し、使命を果たすための覚悟と決意が、神殿に一人残る行動と、あの言葉に表されたのだと。

イエスさまの使命は、ヨセフとマリアの願いや望みを聞いて、親の遺志を継いで生きることではありません。イエスさまの使命は、神さまのみ心に聴いて、神さまの望みのままに生きて、与えられた責務を果たすことです。

それは、キリストであるにもかかわらず、人と同じように生きて人々に仕える者となり、人びとに神さまの愛とゆるしを伝え、人びとの救いのためにご自身のいのちを差し出すというものです。

12歳の少年と言えばまだまだ親に甘えたいと思いますし、親の傍に居たいでしょう。多くは自分の将来のヴィジョンも何も描けていないでしょうし、人生の使命や責務なんて考えもしないでしょう。

しかし、イエスさまは、神さまが選び、使命を与えたれた預言者たちと同じように、家族のもとを離れて、みことばを伝えていく、福音を知らせる人生の旅の覚悟をします。神さまのみ心を思い、この世界の救いのために、私たち人間の罪のゆるしのために、神さまから与えられた使命を自覚し、責務を果たすという決心をされるのです。

「わたしが父の家にいるのは当たり前だ」というイエスさまの言葉こそ、神さまのみ心に聴き従い、神のみ心を全うする、み旨を果たす覚悟の宣言です。そして私たちは神さまのみ旨の中に生かされている、父なる神さまの家族なのだということを示しているのです。

この世での家族はもちろん尊くて、大切なものです。ただこの世の家族が究極のものであったなら、それがいつか終わるときには、絶望しかないでしょう。イエスさまは人々に福音を告げ知らせましたが、その多くが罪人と言われる人々、社会の周縁に追いやられるような社会的弱者たちでした。彼ら、彼女らに神の家族になること、そして神さまの子どもとして共に与えられた人生の旅路を歩む喜びの知らせ、福音を伝え、生きる力、勇気、希望を与えたのです。

そして神さまのみ心と、み言葉に聴き従い、神さまのみ旨の中に生かされている信仰と、希望と、愛の中で生きる神の家族が、キリストの教会となったのです。

神さまは私たちの人生の旅路を共に支えてくださるために、イエス・キリストを与えてくださった、聖書のみことばを与えてくださった、神の家族を与えてくださった。

使徒パウロは言います「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。(コロサイ3:15)」と。

私たちは神さまのみ旨の中で、神さまのみ言葉に支えられ、キリストの平和の中で守られ、神の家族の祈りに励まされ、力づけられ、生かされてきました。

私たちはこれからも、神さまに与えられた人生の旅を、神さまが与えてくださった主イエス・キリストと共に、みことばと共に、神の家族と共に、感謝しつつ歩んで生きたいです。