光が差し込んできた

顕現後第3主日 マタイによる福音書4:12~23

 私たちの新年の挨拶には「明ける」という言葉が入っています。なぜ新年の挨拶にこの言葉が入ったのかはよく分かりませんが、韓国にもこれと同じ挨拶があるのを見ると、多分東洋の文化では、新しいことと「明ける」は、同じ意味を持っているかもしれないと思いました。また、この「明ける」という言葉は、過去のことが終わったことを言うこともあるでしょう。「磯明け」や「忌明け」という言葉から、私たちは「明ける」という言葉が過去のことが終わり、新しいことが始まったことを示していることも分かります。創世記1章を見ると、神様は最初に光を造られます。何もないこの世は光によって明るくなり、すべてが新しく始まりました。私たちの新年の挨拶のように、「明けましておめでとうございます」になったのです。そしてこの光は、私たちに再び与えられました。

 ヨハネによる福音書1章には、この光が世に来て、すべての人を照らしたと語っています。この光は、私たちが信じて従っているイエス・キリストを指しているのです。光がこの世を照らしているように、イエス・キリストも何が正しいのか、 何が神の御心なのかを教えてくださっているのです。この光については、今日の福音書にも書かれています。15~16節の言葉です。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」いくつかの馴染みのない地名が書いてありますが、この言葉の意味は簡単です。イエス様が暗闇と死の陰に住む者たちの光になってくださるという預言です。そしてこの預言通り、イエス様は世の光として活動を始められます。イエス様の公的な生涯が始まったのです。今日の福音書17節の言葉です。「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」

 私たちはこの言葉の中で、マタイによる福音書だけの面白い表現を見つけることができると思います。マタイによる福音書は、他の福音書とは違い、神の国を天の国と表現しています。マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書には、天の国という言葉は書いてありません。なぜマタイによる福音書の著者は、神の国を天の国と表現したのでしょうか。特別な意味があるのでしょうか。当時、保守的なユダヤ人たちは、神様に対する畏れによって、神様という言葉を書かなかったそうです。それでユダヤ人だったマタイによる福音書の著者も、「神の国」を「天の国」と表現したのかもしれないと思います。ところが、この「天の国」についての考え方は、お互いに違いました。ユダヤ人にとって天の国は、自分たちが亡くなってから行く場所でした。しかし、マタイによる福音書の著者は、天の国が近づいたと語っています。ユダヤ人自身が行くのではなく、天の国が来ているのです。これは、著者の天の国についての概念がユダヤ人とは違うということを示しているのです。

 イエス様が言われた「天の国」とは何でしょうか。天の国についての説明が詳しく書いてないのでよく分かりませんが、当時のユダヤ人が理解していた天の国とは違うということは確かです。天の国は死後に行くところだけではないでしょう。イエス様から始まる新しいこと、新しい教えになることもあり、信仰になることもあり、イエス様自身になることもあるでしょう。既存の天の国とは違う新しい天国、この天国が近づいてきたのです。そしてイエス様は、この天国を通してこの世の多くを変えさせるのです。既存の律法や信仰、求めている価値や考えは変わることになります。過去とは違う天の国が近づいてきたからです。

 今日の福音書ではいくつかの特別なことが記録されていますが、私は、これが新しい天国が世に与える変化だと思います。この記録は、過去のことが終わり、新たなことが始まったということを示しています。まず、12節には洗礼者ヨハネが捕まったということが書かれています。メシアの道を準備していた洗礼者ヨハネが捕まったということは、準備は終わり、本格的なメシアの活動が始まったということを示しています。メシアの時代が到来したのです。そしてメシアは預言通り、暗闇と死の陰に住む人々に光を照らしてくださるのです。ところで、ここでの新しい変化は、選ばれた人々、ユダヤ人だけでなく、みんなにメシアの光が射し込むということです。特定された人ではなく、異邦地域の人々にもメシアの光が与えられるのです。

 二番目に、メシアは神殿を中心に活動なさいません。当時の人々は、メシアが神殿を新たにし、神殿と聖地であるエルサレムを中心にして活動なさると思いました。神様が神殿におられると固く信じ、ダビデもエルサレムを中心にして働いたからです。しかし、メシアについての預言は、彼らの考え方とは違いました。ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、この場所が栄光を受けると預言されました。そしてイエス様はここを中心にしてお働きになりました。ユダヤ人から無視された場所、疎外された人々が新しい天国を味わうのです。ちなみにイエス様の故郷であるナザレは、ゼブルンの地に属していました。

 最後に、イエス様は特別な人ではなく、平凡な人、身分が高くない人たちと共にご自分のことを図られるのです。今日の福音書第18節から第22節までは、イエス様がご自分の公的な生涯を共に過ごす弟子たちを招かれる場面が書かれています。彼らはみんな漁師として、力を持っていたり、豊かに暮らしたりした人ではありませんでした。むしろ当時の漁師という職業は、良い仕事として認められていませんでした。漁業をしてみると、律法で清くないと決めた魚も取れることがあります。魚を区別するためには、仕方なくこのような魚にも、手を触れなければなりませんでした。もちろん、清めの儀式というものがありましたが、ユダヤ人として律法が禁じられた魚に手を触れたいと思っている人はいなかったでしょう。しかし、漁師は自分の仕事のためには、汚れた魚にも手を触れなければならなりませんでした。このようなことによって、漁師になることを願っている人は、多くはありませんでした。ほとんどの漁師は家業を継いだ人々であり、社会的にも地位が低い人々でした。しかし、イエス様はこのような人々をご自分の弟子として招かれ、彼らを中心にして教会を立てられました。おそらくイエス様の弟子たちの中で、自分が後世からこのように高められ、自分の名の入った教会が建てられるようになると知っていた人は、一人もいなかったでしょう。このすべてのことは、イエス様から起こった変化であり、過去とはまったく違う新しいものでした。

 教会に通っているということ、信仰を持っているということは、私たちに何をもたらすでしょうか。いろいろなことがあると思いますが、その一つは確かに新しい変化を経験することになるということです。自分の考えが変わり、価値が変わり、求めていることが変わります。イエス様の言葉と教えによって、自分の全体的な生活が変わるということです。過去のことはすべて終わり、新しいことが始まります。イエス様から召された弟子たちもそうでした。今日の福音書での弟子たちだけでなく、他の弟子たちも変化を経験しました。私たちも同じでしょう。信仰生活をしてから、または信仰によって新たに生まれてから、私たちは多くの変化を経験しました。そして、今もこの変化を経験しています。教会を通して、御言葉を通して、聖餐を通して私たちはますます変わっているのです。

 これらのことが可能になったのは、イエス様が光として世に来られたからです。そして私たちの人生と信仰に、この光が射し込んでいるからです。だから私たちは、日々変わっていっているのです。キリストに近い人として、天国にふさわしい人として変わっているのです。隣人と共に笑い、共に泣く人、まるでイエス様のような人になるのです。新年が明けました。すべてのことが新しく始まりました。イエス様によって過去のことが終わり、新しい変化が来たように、今年の私たちの生活と信仰にも新しい風が吹くように願います。光として来られたイエス様が皆様と共におられるように。私たちの日々が新しくなりますように、主の御名によって祈ります。アーメン