復活節第3主日 ルカによる福音書24章13~35節
この世界で一番売れている本、ベストセラーは聖書なんですよね。この世界の沢山の人が聖書の言葉、神さまの言葉を見て、聞いて、触れていることはとても嬉しいことです。聖書をこの世界に与えてくださった神さまに感謝です。
ところでみなさん聖書を読んでいますか?週に一度このような礼拝で聖書の言葉、神さまのみことばを聞いていますが、そのほかに聖書を読んでいる、神さまのみことばに聞くとき、神さまに向き合うときがあるでしょうか? 部屋のどこかの片隅でほこりをかぶっているなんてことないですか?
みなさんの人生の中で、「あのとき聖書に沢山向き合った。あのとき神さまのみことばをむさぼるようにして読んだ。」なんてときがなかったでしょうか?
僕は家族がクリスチャンだったので、小さなときから聖書が身近にあったのですが、聖書に真剣に向き合った、神様の言葉をむさぼるようにして読んだのは30歳になってからでした。今になってみればそのようなときが神さまから与えられたんだと思います。その時、何があったこというと、ニュージーランドに居たんです。生まれて初めて、家族も友達も居ない、言葉も通じない、ひとりぼっちの環境に身を置くことで、それまで味わったことのない孤独感や、つらさ、さみしさ、自分一人では何もできない人間の限界を突きつけられたんです。そんなとき、母親がニュージーランドで必要だろうと、送ってくれたバイリンガルの聖書に向き合い、読み続けたんです。
それまで聖書を読んでもまったく自分の心に響かなかった神の言葉が不思議と、ズンズン、ガンガン心に響くようになって、神さまが自分に語っている言葉としてみことばが心にぐっと刺さり、ぐっと迫り、ぐっと捉えられて、大きな感動と感激に聖書を読みながら涙まで流すようになったんです。
まさか自分がこの聖書を読んで涙する日が来るなんて思ってもみなかったです。日本にいて家族も友達も居て、何の不自由もなく暮らしていたときには聞こえてこなかったし、感じることもできなかった神さまの福音が、自分が本当に辛いな、今の現状がキツいな、苦しいな、という場所に立たされときが、自分の心が聖書の言葉に開かれたときだったのだと思いました。
みなさんはどうでしょうか、聖書のみことばがもっとも心に刺さった、迫ってきた、わしづかみにされたときっていうのは平穏無事、順風満帆であったときより、波瀾万丈、艱難辛苦のときではなかったでしょうか。
聖書の言葉に心揺さぶられたとき、はっきりと分かりました。こんなに人の心に生きる力、勇気、希望、感動、感激を与えるからこそ聖書は、多くの人々に読まれてきたし、読まれているし、世界のベストセラーであり続け、そしてこれから何百年、何千年たとうがそれは決して変わることがないということを。
当然のことですよね。この世界を造られた、私たちにいのちを与えられた神さまがこの世界に向けて、私たちに向けて、呼びかけ、語りかけている神の言葉なんだから。当然です。
さて、今日の福音書の箇所は、神の御心、みことば、愛、そのものである主イエス・キリストが、悲しみと、絶望のどん底にいる弟子たちのそばに来て、声を掛け、再び立ち上がるものとしてくださるという箇所です。
弟子たちは、絶対の信頼と、希望と、期待を置いて従いついてきたイエスさまが世の権力者たちのエゴと欲望のままに、なんの罪もないのに、彼らのさじ加減ひとつでそのいのちがまさに虫けらのように扱われ、殺されてしまった現実に絶望し、慄いていた。
こんな酷い現実世界を生きなければならない絶望感と、大切な存在を失った大きな喪失感のお先真っ暗だ、という思いの中、二人の弟子はエマオという村に向かっていた。
嫌な思い、怖い思い、辛い思いをした場所に、留まりたいと思う人はほとんどいないのではないでしょうか。嫌な思い、怖い思い、辛い思いをした場所からできるだけ離れたいと思うし、すぐにでも忘れたいと思うでしょう。
聖書に「二人は暗い顔をして」と書かれてあるように、二人は肩を落として、トボトボと歩いていたのだと思います。そこに「イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた」と聖書はいいます。イエス・キリスト自ら彼らに近づき、共に歩き、声を掛け、聖書の説き明かしをされた。つまり神のみことばと、そこに込められている神さまの、この世界と私たちに向けられている熱い思い、御心を語りはじめるんです。
キリストは悲しみに暮れるものを見放さないし、見捨てない。放っておけないし、放っておかない。どうにかして支えよう、助けよう、救おうとされる。
主イエス・キリストは、どこまでもその身を低きところに置かれて、「どん底だ」「最低だ」「最悪だ」と嘆く人の支えになろうとされる。どこまでも落ち込もうとするすべての人の受け皿となり、救いたい。そのためだったら汚い飼い葉桶の中にその身を置くことも、十字架の上にその身を置くことも、陰府に降ることも厭わない。自らどん底まで降ってすべての人の受け皿となる。それが神さまの私たちに向けられている熱い、熱い思い、深い憐れみ、尽きることの無い愛だから。
復活の主イエス・キリストは絶望のどん底にいる弟子たちに近づき、共に歩み、声を掛け、一緒に再び立ち上がるものとしてくださった。弟子たちは、主と共に、みことばと共に再び立ち上がり、主と共に、みことばと共に力強く生きていく者となっていくんです。
弟子たちは確信します、キリストは、私たちと共にいて、私たちの人生をどこまでもエスコートしてくださる。支え、励まし、導いてくださるのだということを。
彼らは心に灯された、決して消えることのない希望の光、いのちの光、キリストの光を携えてエルサレムに戻り、その後、世の権力に臆することも、怯むこともなく、神のみことば、福音を伝え続けた。キリストの十字架と復活の出来事に現わされた神さまのこの世界と私たち一人一人に向けられている熱い思い、尽きることのない無償の愛を語り続けたんです。復活の主がいつまでもエスコートしてくださることを信じて。
みなさん、ヘレン・ケラーという方をご存じだと思うんです。彼女は幼いときに病によって、見る、聞く、話す、ができなくなってしまった。その彼女に寄り添い続け、愛を注ぎ続けたのがアン・サリヴァン先生。サリヴァン先生が亡くなるときの最後の祈りが「神さまありがとうございました。私が死んだ後も、どうかヘレンが、私なしでも生きていけますように、お守りください」という言葉だったそうです。神さまに、ヘレンの人生を最後までエスコートしてほしいという切なる祈りの言葉です。
ヘレンはある講演会の最後にこう質問されたそうです「あなたは目が見えるようになることを願っていますか?」と。ヘレンの答えは「いいえ、とんでもない」。そしてこう続けたそうです「私は光の中を一人で歩くよりも、闇の中を友達と歩きたい」「人生の目的は神から愛をいただいて、他人に分け与えることです。そうであるならば、目が見えていようといまいと、耳が聞こえていようといまいと、関係がないです」と。
サリヴァン先生も、ヘレン・ケラーも、信じていました。神さまが、私の人生を最後までエスコートし、すべての困難を乗り越えさせてくださる、と。
今、復活の主イエス・キリストが私たちと共にいて、みことばをもって呼びかけ、共に生きることを宣言してくださいます。
私たちは、復活の主イエス・キリストが私たちの人生の最後のときまで、否、いつも、いつでも、いつまでも共にいて、エスコートしてくださることを信じて、すべてをゆだねて、主と共に、みことばと共に、生きて生きましょう。
みなさまの神さまから与えられたいのちの日々の上に神さまの愛と、恵と、平安とが豊かにありますように。アーメン