マタイによる福音書14章22~33節 列王記上19章1~18節
朝ごはんはとても大切な役割をするということをみなさんもご存知と思います。
人の体は夜眠っている間にいろんな機能が低下しています。ですから、朝起きたときには、内臓や脳や神経の働きが弱くなっていて血糖値が低くなっているために、なかなかぱっとしないのですが、こういう状態を正常に戻し、意識をしっかりさせてくれるのが朝ごはんの役割だそうです。
けれども、食べるよりはもう少し寝ていたい。朝は食欲がない。ダイエットしているから食べない、と言うような理由で朝ごはんを食べない生活をしていると、体が弱くなった時に大変になります。
朝ごはんを食べない人は風邪もひきやすいし、病気にもなりやすいですが、病気になってからも、その病気と闘う力が、毎朝朝ごはんを食べてからだを作ってきた人とは、全然異なるのだそうです。
朝ごはんを食べないことは、ガソリンを入れないで車を走らせるのと同じ状態と考えたらよいということ。だから、「いただきます」と言って、朝ご飯を食べる習慣をつけることを大切にしましょう。
今日の旧約聖書の日課の中にも、「起きて食べなさい」と言う言葉が二回述べられています。疲れ果てて木下に横になっているエリヤを起こして食べさすために述べているみ使いの言葉です。このみ使いの姿は、子どもを起こしてご飯を食べさすお母さんのようですね。母なる神の姿がここに描かれていると思います。
エリヤは、疲れ果てて木の下で寝ていました。寝ていたというか、もう人生を諦めた人の状態でした。王妃イゼベルが自分を殺そうとしていることを知り、恐れて、荒野へ逃れて行くところなのです。
神に祈って、そして神の声を直接聞き、それを伝える働きをする大預言者が、一人の異国の女を恐れて、働いていたことも虚しく、人生を諦めて逃げているのです。神の契約という、祝福と希望のメッセージを伝える主の僕が、襲ってくる虚無感の中で、「もう十分です。もうたくさんです。わたしの命を取ってください」と願っているのです。
生きることへの恐れ、働いても、働いても報われないという虚しさ。自分の能力が限界に達し、燃え尽き症候群状態で闇の中に横たわる主の僕。このエリヤの気持ちを、わたしは良くわかります。同じようなことを、わたしは何度繰り返していることか。わたしだけではなく、ここにおられる皆さんの中にも、共感する方がおられると思います。しかし、主のみ使いは言うのです。「起きて食べなさい。この旅は長く、あなたには耐え難いからである」と。
神さまはエリヤを良く知っておられました。エリヤがそれほど強い人ではないことを。強いからご自分の僕にしたのではなく、むしろ弱いから、不器用だから選ばれたのだと。でも、彼は従順で、神さまを誰よりも愛している。それを神さまはご存知で、ご自分の僕として選ばれたのでした。だから、今、生きることを疑い、闇の中に逃げようとする彼の側に寄り添い、食べ物と飲み物を差し出しながら、神ご自身が仕えておられるのです。
神さまがエリヤの闇の世界に入って来てくださいました。恐れと虚しさの中で人を恐れて、現実から逃げている一人の老人のそばに、命の源でおられる神さまが、まことの食べ物を携えて、寄り添ってくださっているのです。
みなさん、この事実が信じられますか。寄り添っておられる神さまを感じますか。食べ物を携えて食べさせようとして、「起きなさい」と語りかけておられる暖かい神さまが、見えますか。
神さまが給仕してくださるこの朝ご飯を食べて、エリヤは、荒れ野を四十日四十夜歩きました。たった二回だけの食事で四十日四十夜を歩き続けたのです。これは、奇跡です。奇跡に他なりません。普段、わたしたちが食べている食事は、朝食べたら昼にはお腹がすいてきます。しかし、神さまが給仕してくださるご飯は、二回食べただけで四十日四十夜も歩き続けることができる!神さまの食事を食べることは、奇跡が起きるということですね。
今日、ペトロがそのご飯を食べました。
イエスさまが押し出してくださった舟に自分たちだけで乗っていましたが、途中で逆風に遭い、前へ進むことができなくなりました。さらに、波が高くなってきて、いのちまで脅かされるようになりました。船に乗っていたみんなは一晩中、このまま荒波に連れていかれて死ぬかもしれないという恐怖感の中にありました。そんなところへ、イエスさまが、まるで幽霊のように湖の上を歩いて来られるのです。ペトロが言います。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらへ行かせてください」と。すると、イエスさまは、「来なさい!」。「ノー!」ではなく「イエス!」ですね。
「来なさい!」この言葉は、「起きて食べなさい」と、み使いがエリヤを起こして食べさそうとしていた言葉と同じ力をくださる言葉なのです。神さまが弱さだらけのエリヤを信頼して食べさせてくださっているように、あの弱さだらけのペトロに信頼をおいてくださっているのです。神さまに信頼されたペトロは水の上を歩いてイエスさまのおられるところへ行きました。
神さまが給仕してくださる食事をいただくということは、こういうことです。神さまの信頼に身を委ねられるということです。どんなにひどい状況の中に置かれていて、今にでも荒波のような激しいものに自分が飲み込まれてしまいそうな時にでも、神さまをまっすぐに見つめ、自分のすべてを委ねるということ。その時に、水の上を歩くような奇跡が起きるということ。
水の上を歩く。このことは、奇跡に他なりません。水の上に居るとき、人は、一番幸せな状態です。そこでは、ちゃんとやらなければならないという完璧主義も、人に嫌われているという恐れも、慣れていて信じていた道が真っ暗闇に囲まれて見えない状況も、人と比べて自分がとても小さく見えて劣等感の中で追いやる習慣的なことも、何もかもすべてイエスさまに委ねてしまったのですから、身軽いのです。深い暗闇から救われた場所なのです。
ですから、そこは、神の国です。神さまが用意してくださる食事をいただくとき、わたしたちも水の上を歩くことができます。すべてを委ねてしまえば、奇跡の中を生きるようになるということ。
エリヤは、神さまに差し出された食事をして、神の山ホレブにまでたどり着き、そこで、小さくささやく神さまの声を聞きました。そこで彼は、神さまに信頼されていることを知らされるようになります。自分の思い通りにならないから現実逃避しようとして逃げていた自分を、なお、神さまは信頼してくださっていた。
そうなのです。わたしたちは、一人の時は弱いのです。けれども、神さまはわたしたちの弱さの故に、わたしたちに寄り添い、なお信頼してわたしたちの弱さをこそ用いてくださろうとしています。だから、わたしたちの弱さを差し出しましょう。その前に自分の弱さを知りましょう。どんなものが自分の弱さなのか。いらいらしてすぐ怒ること? 人のことを疑うこと?いろんなことが上手にできない不器用なこと? 物事をネガティブにしかし受け止められないこと? ・・・
その弱さを差し出そうとする時、神さまはわたしたちに寄り添い、「起きて食べなさい」と給仕してくださりながら、ささやくみ声で語りかけてくださるのです。「あなたはわたしにとって尊い者、あなたのためなら命をも捨てる」と。