2017年1月8日(日)
マタイによる福音書2章1~12節
宝は光のもとで
新しい年が明けて、第二回目の主日を迎えましたが、今日はじめてお会いする方もいらっしゃるので、みなさん「明けましておめでとうございます」。新しい年にみなさんが抱く希望がすべて祝福されますようにお祈りいたします。
去年の教会の新年会の際に、今年は宝くじを当てたいという希望をもっていた方がおられましたね。宝くじ当たったのかな?当たらなかったなら、み心ではなかったのでしょう。わたしたちに何が必要でそうではないのか、一番知っておられるのは神さまですから、今年の皆さまの抱かれた夢や希望がみ心のままに実現されますようにお祈りいたします。
さて、今日はマタイによる福音書2章1~12節のみ言葉を聞きたいと思います。そこには、救い主としてお生まれになった方に会うために、遠い東の国から、占星術の学者たちがはるばるやってきたと記されています。何人でやってきたのかはわかりません。贈り物が、黄金と乳香と没薬の三つをささげたと記しているので、三人ではないかと言われる場合も多くありますが、四~五人かもしれません。
大切なことは、彼らが遠い東の国からやって来たということです。東の国とはどこを指しているのでしょうか。
福音書の中では、彼らのことを占星術の学者と書いています。この言葉の原語のギリシャ語は、マゴスという言葉です。マゴスとは、魔術師や占い師のことです。これが英語になるとマギーとなります。ところが、このギリシャ語のマゴスと言う言葉の由来は、アッシリア語の「マッフー」という言葉にあると言われます。ということから、彼らが出発した東の国とは、アッシリアの方を指しているのではないだろうか、と言う考えがあります。
アッシリアは、のちにバビロンに滅ぼされ、バビロンはペルシアに滅ぼされ、ペルシアはローマに滅ぼされました。これらの、征服し征服されるという国が象徴しているのは、権力と富、人間の欲望です。権力や富が重んじられるところでは、人の権利や命はちっぽけなものです。自由が奪われ、抑圧された中で息を潜んで生きるような生活。それは深い闇の世界です。そのような東の国、そこで、占星術の学者たちは、救い主の星を見たのでした。
旧約聖書の中では、東の方という意味はそれほど良い意味で使われていません。
創世記3章で、エデンの園のどの木からもとって食べていいけれども、善悪の知識の木からは決して食べないように、と命じられたのにとって食べてしまったアダムとエヴァは、エデンの園から追い出され、エデンの東の方に住まわねばなりませんでした。
また、アダムとエヴァが産んだ二人の兄弟ですが、兄のカインが弟のアベルを殺します。神さまに怒られたカインは、神の前から去って、エデンの東の方に住むようになります。
また、創世記11章には、天まで届く塔を建て、有名になろうという人たちが、神さまに叱られ、話す言葉が混乱させられ、みんな全地に散らされる事件が起こります。バベルの塔の事件です。天まで届くような、神さまの権威に挑戦して、世界に名を知らせようとして集まってきた人たち、彼らは東の方から集まってきた人たちと聖書には書かれています(創世記11:1)。
まだ、あります。創世記25章には、妻のサラに先立たれたアブラハムが若いケトラという女性を迎えますが、彼女との間にたくさんの子どもが生まれます。アブラハムは死ぬ間際になって、全財産をイサクに相続します。ところが、ケトラから生まれた子どもたちを、イサクから遠く、東の方に遠ざけて住まわせたと書いてあります。
魚のお腹の中に入ったことで有名なヨナも、悪に満ちたニネベの町が救われるのが嬉しくなくて、神さまから遣わされたのになかなか神さまの言うことを聞かなくて、だから魚のお腹の中になんか入ってしまうのですが、その彼が、やっとの思いで「あと四〇日すれば、ニネベの都は滅びろ」と、たった一日だけニネベに入って伝えます。するとニネベの人たちは、すぐ悔い改めて救われるようになります。その様子が気に入らないヨナは、不満一杯で都を出て、小屋を建てて都の様子を見ますが、その場所が東の方だとヨナ書は記しています。
このように、旧約聖書の中で東の方と書かれる場合は、神さまの戒めを破った人たちとか、兄弟を殺した人だとか、自分の敵が幸せになってゆくことを心から願うことのできない人たちがいる方角として位置づけられています。つまり、東の方にいる人たちは、神さまの救いから遠いとされた人たちなのです。
ところが、旧約聖書の中でも、唯一、預言書の中では、東の方角は悪いところではありません。むしろ、神殿の東の門から神の栄光が出入りするのだと宣言します。これはとても重要なことです。占星術学者たちがいる東の国で、救い主の星が輝いたということは、この預言書の宣言と重なり、とても大切なことをわたしたちに伝えようとしています。
今日、その東の方から、宝物を携えて、占星術の学者たちがはるばるとやってきました。いいえ、やってきたと言うより、まず、救い主の星が彼らのいるところで輝いてくださったのです。その星が導くままに彼らはやってきたのです。彼らが捧げた黄金と乳香と没薬。この三つの奉げ物は、何を意味するのでしょうか。
実際に、これら三つは、人が葬られるときに使われるもので、貧しい人たちは買うことができないほど、とても高価なものだそうです。それだけ高価なものが、イエスさまへの捧げものとして運ばれてきたのでした。しかし、この捧げものは、イエスさまの星が光らなければそのまま東の国の闇の中に埋もれたままになるものでした。闇の中に埋もれたまま、人の力では見つけることができなかったものです。それは、アッシリアやローマのような天下を支配していた権力によっても、富の力によっても、人を殺すような鋭い武器によっても、天まで届く高い塔を建てられるような凄い技術でさえも、掘り起こすことができなかったものです。
救い主がそれを掘り出してくださいました。そして、それは、真の光のもとに来たときにはじめて具体的に、黄金だとか、乳香だとか、没薬だとかとわかりました。闇の中に隠されているままでは、それがどんなものなのかわからない、それの存在の意味さえもわからないまま眠るものです。
わたしたちにも同じように素晴らしい宝があります。人とは比べられない輝くものをもっています。しかし、それを見つけることができないまま、わたしは深い闇の中にとどまっているのです。神さまから遠くはなれて行こうとして、人と争い、欲望を働かせ、お金や権力を求め、身体と心を壊し、どんどん自分を東の方に追いやって行きます。
そのわたしのところに、救い主の星は輝き、深い闇の中にいるわたしを照らしてくださいます。ここだよ、ここにおいで、一人で寂しいところにいないで、一緒に生きようと。本当の自分に出会って、本当の自分を知って、その自分を愛し、幸せになりなさいと。ですから、立ち上がるのです。闇の中から立ち上がって、新しい道を歩きだすのです。自分自身の足で、しっかりと地を踏んで、あれやこれやいらないものを降ろして、軽やかに、この人生の道を歩き進むのです。