トミヨの愛 ~ 父の日に寄せて ~

マタイ6章24〜34節

 父性愛は母性愛に隠れてあまり表に出てこない場合が多いのですが、今日は父の日を迎えて、父性愛を大いに表に出して話したいと思います。子どもの教会でも話すために材料を調べていたら、トミヨという魚に出会いました(下参照)。

   トミヨは中国と日本と韓国の海に住む魚で、背ビレの前半では棘の間に膜がなく、棘が7〜10本ほど並んでいます。産卵期になると、雄が水草類を集めて水中に巣を作り、雌を誘います。雌が巣の中に産卵すると雄が受精させ、その後、雄は、食べ物も取らないで卵を守り、巣の中に新鮮な水を送るなどの世話を続けます。やがて、卵が孵化して子どもになると、そこで雄は力尽きて死にますが、子どもたちは自分を世話してくれたのが父親とも知らず、死んだ父親の体を食べて大きくなって行きます。  何と素晴らしいトミヨの父親の愛でしょう。

人の父性愛にこのトミヨの父の愛を丸ごと例えることはできないかもしれません。しかし、一つ確かなことは、父親の愛は子どもには分かりにくいということです。トミヨの子どもたちがどんなに父親に守られて育ったのかを知らずに大きくなって行くように、人間の子どもも、外で働く父親の恩恵をあまり直接触れずに大きくなっていく面が強いのではないかと思うのです。

わたしの家は家族を守るのは母親でした。気づいてみると、自分も母と同じような生き方をしていると思いましたが、母は自分の四人の子どもだけではなく、親を亡くした従兄弟の子どもたちまで面倒をみて育てたと聞きました。ところが、わたしの中には残っているのは父の愛です。母に育てられたのに、大切にされ記憶は父からいただいた愛です。父にはわたしが一番でした。家の庭の木になった実を採ったらまずわたしに、かわいい洋服を見つけるとまずわたしに。父にはどんな時もわたしが優先でした。子どもには、外で父が働いて来たかどうかではなく、どれだけ自分のことを大切にしてくれたのか、それが残るのですね。

神さまのわたしたちに向けられた愛は、そうだと思うのです。わたしたちのことを無条件に愛しておられる。背が低いか高いか、頭がいいか悪いか、いい仕事をしているのかそうではないのか、お金があるかないか関係なく、無条件に愛しておられる。いいえ、弱さが多ければ多いほど、障碍があり病気の中にあればなおのこと、注がれる愛は大きいと思うのです。わたしたち一人ひとりは、神さまにあっては一番だから、ナンバーワンだからです。

それは、わたしは神さまがお造りになった神さまの作品なのだからです。神さまの聖なる息を吹きかけて生きるようにされ、神さまの宝を納めて生きるようにされた、大切で掛け替えのない存在だから。だから、トミヨの父のように、寝る暇もないほどわたしたちのことを守り、新鮮な水を送り続けながら、ご自分のいのちをもそのままわたしたちに注いでくださっておられるのです。

そうなのに、子どもであるわたしたちはその愛を生きているのでしょうか。どこを見ているのでしょう?何を求めて生きているのでしょう?神さまから送られる新鮮な水が感じられるようなところにいるのでしょうか。毎日与えてくださる新しいいのちの息吹を生きているのでしょうか。

今日、イエスさまは、「まず神の国と神の義を求めなさい」と言っておられます。神の国を求める、神の義を求めるということはどういうこと?

この頃の自分のスケジュールを見ていると、そのわたしがこのようなことを話すのは筋が合わないと思いますが、わたしたちはあまりにも忙しすぎます。「忙しい!」という言葉が挨拶になってしまったくらいです。メールを書くときも、「お忙しいところ申し訳有りませんが…」、自分でも「あ、忙しい!」、「ママ忙しいんだから!」、「パパ忙しいんだから!」と言って子どもの訴えを退くような生活パターンです。そして子どもも忙しいのです。食べながらもスマートフォンを話せません。スマートフォンを見ながら眠ります。忙しくしていることが良い生き方であるような錯覚さえあります。

ある精神科の医者は、現代の人は、たった30分でも、普段の生活から逃れて休む空間や時間を持つことが、精神的にも肉体的にも健康のためにとても大切だと言っていました。必ずしも静かなところじゃなくてもよくて、いつもいったり来たりしている道から、ちょっとだけ寄り道をする。うるさいマクドナルドでもいい。そこにも神さまはおられるのだから。そこで、30分くらい、静かに神さまと自分だけの時間を過ごしてみるのです。

イエスさまはそうしておられました。一日一回は人たちから離れて、静かなところを探して神さまと二人きりの時を持ちました。エルサレムに近づき、十字架の道が段々近づいてくるともっと必死に、もっと長く、神さまとの時間を大切にされるようになりました。

イエスさまもそうされたのに、わたしたちは、忙しければ忙しいほど一人の時間作りができなくなって、一人ですべてを背負っていきます。自分のためにたった30分の余裕もないような生活をしているのです。つまりそれは、食べるもののために、着るもののために、飲むものために競争をし、成功者側に自分の身をおこうとする人々の群れのただ中にいるということ。イエスさまは、そういう人のことを「異邦人」と言っておられます。異邦人とは、洗礼を受けていない人のことではなく、神の国を知らない人のことです。わたしたちは、神に召し出されて聖なる者とされていながら、この世の生き方をそのまま生きている「異邦人」の殻を破れず、競争の世界を生きているのではないでしょうか。そこでは、競争に勝つために相手の弱さを攻撃し、その人の持っている物や着ている物によって相手を判断し、自分を正当化するためには弱い立場にいる人を堂々と踏み台としても良いという世界です。

「まず神の神を求めなさい、神の義を求めなさい!」異邦人の道から帰ってきなさい。聖なる者の道へ移り、聖なる者として生きるように!ということ。明日のことまで、生きているかいないかわからない遠い将来のことまで思い悩みながら、肩も背中もカチカチで、ストレス抱えて生きるのをやめようということ。

トミヨの子どもたちは、知らないうちに父親から愛され、父親のいのちをいただいて、その体まで食べて大きくなっていきます。きっと、彼らは、見たことはないけれども、体で感じた父親の愛を、自分が父親になったときには同じく再現していくことでしょう。愛されたことのある人が愛されるように、神の国を知る人が神の国を生きるようになります。この世で神の国を生きたことのある人が死んでも神の国へ入るようになるのです。神の国を生きたことのない人は神の国がどこにあるのかわかりません。

忙しく生きなくても良いようにライフスタイルを変えられれば一番良いですが、忙しさの中にあっても、一日二十四時間の中のたった30分、自分のために静かにいられる空間と時間を作る!そこで神の義を味わい、神の国への道を見つめることができたらいいですね。

トミヨです ↓

トミヨ