マルコによる福音書7章31~37節
先週の金曜日より、ルーテル学院大学での講義が始まりました。「聖書に見るジェンダー」というタイトルです。ジェンダーって何だろうと思われる方もおられるといます。社会的・文化的な性区別を意味します。たとえば、男性はこうあるべき、女性はこうあるべきと、社会的・文化的に性の役割が決められてしまっていることです。このような中では男女が本当に平等になり、神さまから与えられた自由を生きることがむずかしいのです。
聖書の中にもジェンダーの視点から書かれている箇所がたくさんあります。それを一つ一つ取り上げて、みんなで考え、話し合っていく、それによって創造のわざによって与えられた自由を取り戻す作業をしていくのです。
創造のわざの中で与えられた自由。創世記1章の創造物語の中には、天地創造の最後の日である6日目に、神さまはみ姿に象って男と女を創造されます。そこには男と女であること以外何の区別もありません。ただ神に造られた二人が等しい者としてここにいる、それだけなのです。
また、創世記2章の物語では、神さまが土をこねて人を形づくります。その人の鼻にご自分の息を吹き込まれて、ただの土くれであった人は命をもって生きるものになりました。
わたしたちが息をする。その息は神さまが吹き込んでくださった神さまの息であって、わたしたちのものではないのです。これは、この世がひっくり返っても変わりません。そしてこの認識は、神の恵みによって生きるという、神の前に立つ者の信仰の基礎となるものだと思います。
しかし、人は、そのことを忘れ、わたしの命は自分のもの、だから、長生きするために何を食べようか、何をしようか、どこに住もうかと、どれだけ命に執着しているでしょうか。または、男らしくあるために、女らしくあるために自分を強い、人に求めることによって創造のわざの中で与えられた自由を失ってしまいました。
わたしたちは、その自由を失ったことにきづくどころか、生まれながら慣れ親しんだ習慣や、社会や文化の中に植えつけられたものの見方の中に身を置いて、そこで求められる日本人らしさ、男らしさ、女らしさ、牧師らしさ…という~らしさを求め、そしてそれを守ろうとしています。とても不自由な生き方です。
今日、わたしたちに与えられた福音は、「耳が聞こえず舌の回らない」人の癒し物語です。
人々は、イエスさまのところに、「耳が聞こえず舌の回らない」人を連れてきて、その人の上に手を置いてくださるように願いました。
しかしイエスさまは、手を置くどころか、不思議な行為をなさいます。ご自分の指をその人の両耳に差し入れ、唾をつけてその人の舌に触れられ、それから天を仰いで深く息をついてからその人に向かって「エッファタ」、「開け!」と言われるのです。するとその人は、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになりました。
この場面を想像してみましょう。イエスさまの指がこの人の両耳に入れられ、その後、唾をつけてその人の舌に触れておられる。何と親密で密接なやり取りでしょう。もしも、このような仕草が、今この自分に対してなされるとしたら、皆さんはどうしますか。群集の中から連れ出されて、イエスさまとの深い密接さの中で癒しの行為がなされるのです。もしからしたら、そもそも、自分は耳も聞こえるし、舌ももつれていないから、お断りしますと言うかも知れません。
しかし、福音書は、そのわたしたちに問いかけているのです。耳が聞こえず、舌がもつれた一人の人を通して、耳も聞こえ、舌ももつれずにちゃんと話ができるわたしたちに問いかけているのです。つまり、「あなたは何を聞いているのか」、「あなたは何を話しているのか」と。
人間の耳は不思議なもので、同じ言葉を聞いたのに、それに対する応答はそれぞれ異なります。同じ説教を聞いているのに、みんなの反応は違うのです。
それは、耳はその人の社会や文化を現しているものだからです。その人がどのような環境の中に生まれ育ち、どのようなことを学び、どのような経験をして今に至ったのか。それによって聞き方というものが異なってくるわけです。同じことが述べられていても、それがその人の中に入ると違った形をして出てくるわけです。その聞き方が舌を動かします。その人が聞いたものが口を通して述べられるのです。
今、あなたは何を聞き、何を話しているのかという問いかけ。そしてこの問いが指し示しているのは沈黙の豊かさです。
ここで言う沈黙とは、ただしゃべらないということではなく、聞いている、受け止めているという状態のことです。誰かと一緒にいれば、一緒にいる人のそのままを受け止め、語らなくても伝わってくるその人の気持ち、辛い思いや孤独感、ささやかな喜びや感謝…を、今のありのままを受け止めながら共にいる。そして沈黙は、自分自身の中の気持ちも正直にそのまま見つめさせます。きっと、その静けさの中に命の輝きと自由は現れて来ると思うのです。
けれども、現実のわたしたちは、おしゃべりでいっぱいです。心の仲で人を裁き、悩み、憎み…内面がどれだけおしゃべり状態になっていることでしょうか。特に、今の情報社会の中で、わたしたちは、はかりも知れないほどの情報量を自分の中に受け入れて、それによって生き方が決められるほど振り回されています。一時も脳は休むことなく、受け入れた情報のおしゃべりによって常に働いている状態です。そうであればあるほど心は疲れ、不自由な生き方になっていきます。舌がもつれているというような状態です。
イエスさまの不思議で密接な触れ方によって、耳が聞こえず舌がもつれて話すことができなかった人は、たちまちはっきりと話すようになりました。つまり、その人の心の中に、創造の業のときに与えられた自由が戻った。命の持ち主は神さまであるという、本来の在り方へ取り戻されたということ。
人が本来の姿を取り戻すときのことをイザヤの預言は次のように語ります。「そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。 熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。… そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ。愚か者がそこに迷い入ることはない。 そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。」(イザヤ35:6~10)
はっきりと話すことができるようになった。それは、聖なる道が開かれたということ。それは、ありとあらゆるボーダーラインを超えるということ。ジェンダーを超えての自由な選択をする、わたしのありのままの道。
今日、イエスさまはわたしたちの最も近くに密接に立ち「エッファタ」「開け」と、心の戸を叩いておられます。
2018年9月16日(日)説教より2018-09-18