三位一体主日 創世記1:1~2:4a|Ⅱコリント13:11~13|マタイ28:16~20
現代社会に生きる私たちにとって、人や物事を信じるという事は難しいことのように思えます。小さい頃から諸々の教育を受け、この世における善悪を学び、それをベースとして生きていることを考えると、いたしかたない様な気もします。
私たちが信じて疑わないキリストの復活。この大切なことに関してなのですが、受洗準備の勉強をしている時、梁熙梅先生に問われました。「キリストの復活を信じますか」と。今は純粋な気持ちでまっすぐに「はい、復活を信じます」と答えられますが、当時の私はこの様に答えたと記憶しています。
「肉体としての復活なのか、霊としての復活なのか。復活されたとは思いますが、肉体となるとどういう風にして復活されたのか気になってしまいます」と。
熙梅先生は「そういうことではなく、ただ純粋に復活を信じますか」と重ねて聞かれました。どうしようと思いつつ、復活されたという事実を信じてはおりましたので、「はい」と答えたのを覚えています。ただこの「はい」という返事は、自分の中で色々な理由付けをしながらの返事だったのを覚えています。内容までははっきり覚えていませんが。
この様に、人は、今の自分の物差しで全てを見たり測ったりしているのかもしれません。自分の物差し…所謂自分の善悪等、学び教えられたことを基準としてみた時、もしかしたらそれはとても偏った物になってしまうのかもしれません。過去の歴史を見ても分かるように、時代背景やその時の物の考え方によって善悪は違います。今現在「良い」とされていることが、数十、数百年後には「悪い」という事になる可能性もあるのです。
今回与えられた福音書の前の部分。ファリサイ派の律法学者たちが「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」とイエス・キリストをとがめた時、イエス・キリストはこの様に答えられました。
「『父母を敬え』という神の掟があるにもかかわらず、あなたたちは自分たちの作った規定を盾にして、神の律法をないがしろにしているではないか。じっさいあなたたちは『親に向かって”あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にします”とさえ伝えれば、父母への孝養の義務を免除される』という口伝法規を盾に『父母を敬え』という神の掟(神の十戒中の第四戒)をないがしろにしているのはどういうことか」と。
この様に聖書にも記されている通り、私たちは自分本位、時代本位的な考えでとても大切な根幹部分を無視し、都合よく解釈してしまいます。これは今もまさにそうで、現在世間で流れているニュースなどに対しての人々の対応、特定の人に対する誹謗中傷。色々な情報が錯綜する中で、何を信じたらいいのか分からなくなり、恐怖心が大きくなってしまった人たちが、一つ一つの物事に対して反応している。その様に思えてならないのです。あのニュースに対してはこの怒り、この出来事に対してはこのクレーム。まさにイエス・キリストが仰ったマタイ15章14節
「そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
この「そのままにしておく」ことができず、「口から出てくるもの」に繋がってしまっている様に思えるのです。
では、私たちは一体どうすればいいのでしょうか。その答えがまさにこの後の福音に記されている様に思えます。マタイ15章21節から28節迄のカナンの女性の部分です。
この福音書の部分ですが「カナン」と書かれていることから、この女性が異邦人であるという事が記されています。またこの女性がイエス・キリストを「主」と呼ぶばかりではなく「ダビデの子」とまで呼んでいることで「メシア、救い主」であると信じていると記されています。このことにより、ここには異邦人の女性がイエス・キリストを救い主と信じていると記されていることになります。
この異邦人の女性は、会ったこともないイエス・キリストに対し「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びます。イエス・キリストがお答えにならなくても、彼女は一生懸命にイエス・キリストに訴えかけます。イスラエルの民以外は助けないと言われても、信じるイエス・キリストへ働きかけます。更に「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とイエス・キリストに言われても、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」とイエス・キリストを信じ、娘を思う一心で願い続けます。当時ユダヤ人は異邦人を穢れた者という意味で「犬」と呼んでいました。それでも願い続ける彼女をみて、彼女が神のご意志に従う決意がある事を受け止めイエス・キリストはこう言われました「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
私たちは信じるものが無くなってしまった時、深い恐れの中に佇んでしまうと思います。また逆に、恐れや恐怖の中にある時、全てのものが信じられなくなってしまいます。恐怖という暗闇の中に居ながら信じる心を保つのはとても難しいことでしょう。信じることが難しく、間違った心の平安を保つために色々なものに対して攻撃してしまうかもしれません。それは自分かもしれませんし、親かも知れません。娘息子かもしれませんし、友人や他人かも知れません。深い苦しみの中にいる時、この「間違ったこと」が間違ったことであるという事に気付けずにいることもあるかもしれません。
でも幸いなことに私たちには聖書があります。神のみ言葉があります。主イエス・キリストが共にいてくださいます。神のご意志により働かれる聖霊が共にいてくださいます。このことだけでいいので信じ歩めるようにしたいです。何も考えず、ただ主と神を信じ続けることにより、心の平安が訪れるのだと思います。辛く、苦しみの中にある時こそ、神のみ言葉に耳を傾け信じ祈り続ける事こそが唯一の救いの道なのだと、今日のこの福音書が示しているのだと思います。またこれは自分自身だけでなく、繋がる全ての人に対しても、全世界の人に対してもそうだと思います。紛争や差別、侵略や迫害にあっている人、病や怪我等、今苦しみの中にある全ての人が、この信じるという希望の光、恵みを無くすことなく過ごしていかれますよう祈りたいです。
無条件に主と神が私たちを愛してくださるように、ただただ純粋に信じ歩んでいけたらと思います。