顕現後第5主日 マルコによる福音書1:29~39
みなさんは食中毒になったことがありますか。私は3年前に軽い食中毒にかかり大変な思いをしました。丁度その時妻と息子は新潟の実家にいたので、僕一人で浦和にいました。やはり病気やけがなどで苦しんでいるときには一人だと、とても辛いものがありますね。這うようにして病院に行って、薬をもらってて、コンビニのおかゆだけで3日間過ごした、という苦い経験があります。
そのとき、つくづく思ったのは、人は自分のできないことや、限界あることを誰かに引き受けてもらいながら生きている、生かされているのだな、ということです。
今みたいに近くにお医者さんがいて、コンビニがあってという時代ではないときに、一人きりで病気をしたりしたら、本当に大変だっただろうなと思います。
今でもあまり発展していない国や、貧しい国に暮らす人は近くに病院がないとか、コンビニやスーパーがないでしょうから、一人で生活するとか暮らしていくということは困難なこと、はっきり言って生きてはいけないのだと思います。だから家族が多かったり、人々は肩を寄せ合いながら生活し、一人ではできないこと、一人では限界のあることを引き受け合いながら、担い合いながら生きているのでしょう。
そもそも人間はこの世界に生を受けてから食事のこともトイレのことも自分一人では何もできなくて、お医者さんや、両親、家族など、人の手を借りて、できないことを引き受けてもらって成長し、生きていくことができるわけです。
ただ、大人になって自分で何でもできるかのようになってくると忘れてしまうんです。自分の人生は最後まで、自分ではできないことを誰かが引き受けてくれて生かされているのだ、ということを。
私たちは誰一人としてもれることなく限界を持ち、その限界を誰かに引き受けてもらいながら生きている。生かされている。つまり人はそれぞれのできないこと、限界を引き受け合いながら生きるもの、生かされるものなのだということです。
今日の福音書の箇所で、イエス・キリストは人々の限界を引き受けられます。イエスさまがシモンとアンデレの家に行くと、人々は熱を出して寝こんでいたシモンのしゅうとめのことを「早速(30)」イエスさまに話しました。「早速」という急を要するような状況を見ると、しゅうとめの病状は重いものであったのかもしれません。
そして「早速」という言葉から、自分たちではどうすることもできず、熱にうなされ、苦しんでいるしゅうとめをイエスさまに癒していただきたい、助けていただきたい、いのちを救っていただきたいという人びとの強い気持ちを計り知ることができます。
イエスさまは、人々の思いをくみ取り、受け止め、人びとの限界を引き受けて、しゅうとめのそばに行き、手を取って起こされました。
そして、癒されたしゅうとめはイエスさま達をもてなします。普通なら先生や師匠や権威ある人が家に来られたなら、一息ついてくださいと、最初にもてなしされるようなものです。しかし、イエスさまはひと息つく間もなく最初にしたことは、人々のしゅうとめを癒してほしいという思いをくみ取り、目の前で苦しむ者を癒し、助けることでした。ここに神さまのみ心があらわされているし、私たち人間への思いやりと、深い愛があらわされています。
神さまは、私たち人間がこの世の事柄にからめとられ、思い悩み、苦しむ、私たちの人間の思いをくみ取り、受け止め、支えたい、守りたいのです。私たち人間の限界、罪も、死も、引き受け、受け止め、助けたい、救いたい、共に生きていきたいのです。
イエスさまは言いました「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人々の身代金として自分のいのちをささげるために来たのである(11:45)」と。
その通りに人々が夜になってイエスさまのもとに連れて来たいろんな病に苦しむ大勢の人のためにイエスさまは働き、仕えるんです。夜になったから休みたいといって、人々を追い払うのではなく、イエスさまは、痛み、苦しみ、悲しみの中にある人々の、癒されたい、助かりたい、という思いと、病の中にいる者たちをイエスさまのもとへと連れて来た人々の思い、願いをくみ取り、限界を受け止め、すべてを引き受けていくのです。
病の中にいる人を可哀想に思いイエスさまのもとへと担いでか、背負ってかしながら連れて来たその人々の思いやりを、イエスさまはしっかりと受け止められるんです。
人々は病に苦しむ人のために手を差し出しました。イエス・キリストはすべての人の救いのためにご自身のすべてを与え、ご自身のいのちを差し出すのです。
人は誰でも助けてもらうために差し出される手を必要とし、ぬくもりを必要としているでしょう。そして、罪のゆるしと救いのために差し出されたイエス・キリストのいのちが必要なのです。キリストによってあらわされた、うそ偽りのない、あたたかな愛が人には必要なのです。
弟子たちはイエスさまに言いました「みんなが捜しています(37)」と。イエスさまはご存知です。私たち人間が心の深いところでいつでも「愛」を求め、探し、必要としているということを。イエスさまは言います「近くのほかの町や村に行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである(38)」と。
イエスさまはガリラヤ中を回って人々に福音を宣言し、仕えます。寄り添います。人々のすべてを引き受け、ご自身のすべてを差し出されるのです。
イエスさまは人々の痛み、悲しみ、苦しみ、を受け止められました。そしてまた人びとからイエスさまが受けたのは、怒り、妬み、憎しみ、でした。
それらすべてを引き受けて、イエスさまが人々に差し出したのはご自身のいのちであり、人々が心の奥底で願い、求め、必要としている限りない無償の愛でした。すべての人がキリストのいのちと愛を受け止め、私たちが互いの存在のかけがえのなさを知り、私たちが互いの存在を大切にして生きるためにです。
私たちは、私という人間のありのまますべてを引き受け、受け止め、大切にしてくれて、共にいてくれる存在がいることを信じ切ることができるなら、与えられた人生を前向きに、肯定的に生きることができるのではないでしょうか。
私たちは今日も、私のために差し出されたイエス・キリストのいのち、そこにあらわされた神さまの限りない無償の愛をしっかりと受けとめ、私たちのすべてを引き受けてくださる神を信じて、すべてをゆだねて、安心して生きましょう。
そして私たちは、イエス・キリストの十字架と、そこにあらわされた神さまの愛を思いながら、強がることも、独り善がることもなく、謙虚にできないことも認め合い、引き受け合い、助け合い、祈り合う一人ひとりでありたい。キリストの教会でありたい。