聖霊降臨後第16主日
マルコによる福音書8:27~38
この前、子どもと一緒に絵本を読んでいて「いい絵本だな」と思わされた絵本がありました。絵本のタイトルは、『しあわせのコツ』というものです。短い詩に素敵なイラストがつけれた絵本なのです。短い詩なのでここで紹介させていただきます。
『しあわせのコツ』「きみがだれかのために尽くすとき きみの力は千倍になる きみがだれかのために涙するとき その涙はだれかの心をいやすだろう きみがだれかのために喜ぶとき その喜びは光となってだれかのうえにふりそそぐ きみがだれかのために祈るとき その祈りはだれかをあたたかくつつむだろう きみがだれかのために生きるとき きっとどこかでだれかが きみのために尽くし きみのために涙し きみのために喜び きみのために祈るだろう きみがだれかのためにしていたように きみがだれかのためにしていたように」
誰かのために尽くし、涙し、喜び、祈り、生きるとき、必ずきっと誰かの幸せに、そして自分の幸せにつながるんだ、という絵本の言葉に心があたためられ、感動しました。そして思いました「この絵本を一緒に読んでいる息子が、だれかのために尽くし、涙し、喜び、祈り、生きるような人になってくれたらいいな」と。そしてイエスさまが言っていた言葉を思いだしました「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい―――隣人を自分のように愛しなさい(マルコ12章30-31)」。
神さまと人とを愛し、尽していくことで、私たちの人生の充実、喜びや、幸せにつながり祝福されたものとなる。逆に神さまにも、人にも背を向け、自分本位、自分勝手、独り善がりで生きるとき、私たちの幸せや喜びは遠ざかり、不安や恐れ、空しさや寂しさの中で深いため息をつくことになるのではないでしょうか。
イエスさまはすべての人びとに、全身全霊をもって神さまのみ心と、み言葉と、愛とをはっきりと示し、イエスさまが語られた言葉をよく聞いて、信じて、従う者となってほしいと言われます。すべては、私たちが神さまから与えられたいのちの日々の中で喜びや、幸せや、平安、希望、救いを得て、一度きりの人生を活き活きと生きていくため、生かされていくためにです。
今日の福音書で弟子のペトロは、イエスさまの「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに、「あなたは、メシアです」と信仰を告白しています。「メシア」はギリシア語で「キリスト」という言葉になります。
「あなたはキリストです」と信仰告白したペトロは、イエスさまがこれからご自身の身に起きる苦しみの出来事を聞いてイエスさまをわきに連れていき、いさめ始めるのです。弟子であるにもかかわらず、キリストの言葉を受け入れることができずに、わきに連れていき、いさめ始めるとは無礼にも程があります。
ただ、この弟子のペトロの姿から映し出されるのは、私たち人間はいつでも信仰と自己中心の罪のはざまで揺れ動き、神さまの言葉を受け入れることができずに、わきへと追いやってしまうことが多々あるだろうということです。私たちは、自分の思い、自分の都合、自分のことだけに物事を進めたくて仕方がないという罪にからめとられてしまうことが多々あります。
イエスさまは、ペトロのとった振る舞いに対して、ペトロだけに向かって言うのではなく弟子たち全員を見ながら、全員に向けていいます「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。
サタン、つまり「悪」、その思いはいつでも私たち人間を神さまのみ心、み言葉、愛から引き離そう、背を向けさせよう、不信仰へと落とし入れようとします。そして自分の思いどおりに、自己中心に、自分本位に、自分勝手に生きること、挙句の果てに、自分が神であるかのように振る舞い生きることで、私たちの人生を滅茶苦茶にしようとするでしょう。
イエスさまがとても強い調子で「サタン、引きさがれ!」。というのも無理はありません。なぜならイエスさまは愛する弟子たちを、私たちを守り、支え、導き、救いたくて仕方がないからです。それに、サタンも、支配者も、この世の何ものも、キリストより上に立つなんてことがあってはならないし、キリストを遮り、キリストの前に立つことは許されることではないからです。
イエスさまは、次に群集を弟子たちと共に呼び寄せて言います。つまり、弟子であるとか弟子でないとか関係なく、神さまがみ心にとめて愛してやまないすべての人々に向かってイエスさまはみ言葉を語るのです「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。
「自分を捨て」るとは、自分、自分、自分、という自分本位、自分勝手、独り善がりであるな、ということでしょう。イエスさまは群集も弟子たちのことも「共に」呼び寄せたのです。みんな神さまに愛されている同じ人間です。「自分」という思いだけに囚われて生きるのではなく「私たち」という広い心と、広い視野をもって「共に」生きることを神さまは私たちに望んでおられるのです。
そして、「自分の十字架を背負って」という「十字架」とは、望まない重荷を背負いながら、ということができるかと思います。
誰もが人生の中で望まない重荷を負わなければならないような状況に向き合うときがあると思います。家族のこと、仕事のこと、ケガや病気、犯した罪や過ち、老いてゆく肉体などなど…。誰もがみんな自分の十字架を背負いながらそれでもけなげに、懸命に生きていくんです。
そして、イエスさまは「わたしに従いなさい」と言われるんです。キリストは私たちのすべてを引き受け、重荷も背負い、担い、支え、神さまの思いと、言葉と、愛の中で生きるように導き歩んでくださるでしょう。
私たちは、いつでも祈りましょう、み言葉に聴きましょう、礼拝に与りましょう、賛美しましょう。「わたしに従いなさい」といわれた主イエス・キリストが、おぼつかない足取りでつまずきそうな私たちを担い、支え、導いてくださいます。
神さまは、私たちの喜び、幸せ、平安、救いを心の底の底から、尽きることなく望んでいます。その神さまの尽きることのない私たちへの熱い思い、限りない無償の愛と、計り知れない恵とがイエス・キリストによって示され、イエス・キリストによってしか与えられない、喜び、平安、希望、いのち、救いへと私たちを導いてくださるのです。
神さまは、「神のことを思わず、人間のことを思って」しまう私たちを深い憐みと、尽きることのない愛をもって絶えずみ心に留め、救いと永遠のいのちであるキリストのもとへと呼びかけ続け、招き続け、導き続けてくださいます。
今日も主イエス・キリストは私たちに語ります「自分を捨て、自分の十字架を背負い、わたしに従いなさい」と。
私たちは、私たちの救いのためにご自身のすべてを与え尽された主イエス・キリストを信じて、従い、人のために尽くし、人のために涙し、人のために喜び、人のために祈り、人のために生きて、共に喜びと、幸せと、平安と、希望と、救いとに与り生かされて生きましょう。
そして、神さまのみ心と、み言葉と、愛を思い、キリストを信じて、従い、すべてをゆだね、すべてをあずけ、すべてを任せて、キリストのいのち、キリストの平安、キリストの愛の中で生かされていきましょう。