聖霊降臨後第17主日 マルコによる福音書9:30-37
人によっては、想像もしたくないことや恐れることがあると思います。私も想像もしたくないことがあります。それで私たちは皆、そのようなことが起きないようにと願っています。福音書の弟子たちにも、このようなことがありました。それは、自分たちがメシアだと思っていたイエスさまの死でした。弟子たちは、自分の先生がイスラエルの英雄になるようにと願いました。自分たちが聞いて読んだ旧約聖書のモーセやエリヤのように、自分たちをローマから、不条理な世相から救ってくださるようにと願いました。しかし、イエスさまは、このような弟子たちにご自分の死を告げられました。弟子たちは、ご自分の死についておっしゃるイエスさまを理解することができませんでした。自分たちを救ってくださるメシアとして従ったのに、なぜご自分の死についておっしゃるのかがよく分かりませんでした。そして、ご自分の死についての言葉が繰り返されると、弟子たちは恐れました。今日の福音書は、イエスさまがご自分の死を予告なさった二度目の場面です。私たちは、この言葉を通して、イエスさまと弟子たちの福音に対する理解が違ったということと、福音についての私たちの考えをもう一度まとめることができると思います。
30節の言葉です。「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。」なぜイエスさまは、人に気づかれるのを好まれなかったかは分かりません。ただし、31節の言葉を念頭に置いたら、弟子たちに必ず教えるべきことがあったからだと思います。それでイエスさまは、他の人によって弟子たちとの時間が妨げられないようにするため、人に気づかれるのを好まれなかったようです。弟子たちは、必ず理解しなければならないことがありました。それは、イエスさまの死と復活でした。私たちキリスト教にとって、イエスさまの死と復活は、驚くべきことであり、最も大事なことです。しかし、当時の弟子たちにおいては、絶対に起きてはならないことでした。
弟子たちは、イエスさまをメシアまたはメシアかもしれないと思いました。弟子たちは、直接、イエスさまが起こされた奇跡を体験しました。病気を癒し、悪霊を追い出し、いくつかのパンをもって数千人を食べさせることを見ました。特にまな弟子であったペトロ、ヤコブ、ヨハネは、イエスさまの姿が栄光のうちに変わることを見ました。弟子たちにとってのイエスさまは、自分たちの希望であり、未来であり、最後の砦でありました。しかしイエスさまは、続けてご自分の死について弟子たちに言われました。もちろん復活についてもおっしゃいました、私の考えでは、復活の言葉は死についての言葉に隠されて、弟子たちの耳には聞こえなかったと思います。イエスさまの死と復活の言葉を聞いた弟子たちは怖くなりました。今日の福音書32節の言葉のように、弟子たちはイエスさまの言葉が分かりませんでしたが、怖くて尋ねられませんでした。自分の希望と未来が消えてしまうかもしれないという不安があったからだと思います。
福音が欲とぶつかるとき、神さまの言葉が人間の考えとぶつかるとき、福音は、人の心に不安を起こさせます。弟子たちが不安だったのは、自分たちの考え、すなわち欲のためでした。冷静に言うと、弟子たちがイエスさまの死について尋ねることさえも恐れていた理由は、先生の死が怖かったのではなく、先生の死に自分の未来がかかっていたからだと思います。先に申し上げたように、彼らはイエスさまを通して、世の中に変化をもたらそうとしました。既存の権力から抜け出すことを望み、イエスさまが世の権力者たちより大きな力で自分たちを救ってくださり、自分たちの国を立ててくださるだろうと思っていました。しかし、イエスさまは、このような彼らにご自分の死と復活についておっしゃいました。弟子たちの思いのままに動いてくれないとおっしゃったことと同じなのです。
イエスさまがおっしゃったことは、確かに福音でした。しかし弟子たちは、福音を理解することはできませんでした。自分たちが願っていた福音とは違ったからだと思います。今日の福音書33〜34節の言葉は、弟子たちが福音を理解することができなかった理由を教えてくれます。「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。」弟子たちは、イエスさまの死と復活、すなわち福音について不安を抱いていました。それで弟子たちは、不安を減らすために、自分たちが望んでいる未来を置いて話し合ったと思います。そして、そのうちに誰が一番偉いか、つまり、誰が高い地位を得るかについて議論したと思います。イエスさまは、弟子たちに福音を教えてくださいましたが、弟子たちは、自分たちが得られる地位だけに夢中になっていました。面白いことは、ローマと既存の権力から抜け出すことを願っていた彼らが、自分たちの権力のために議論したということです。
皆様はこの様子を見て何を感じられたでしょうか。私は弟子たちの姿を通して、人間が求めている福音は、どんなにむなしいことか、どんなに欲に満たされていることかを感じました。そして、なぜ福音が不安を起こさせる時があったかが分かるようになりました。イエスさまは、弟子たちに犠牲について語られましたが、弟子たちは、イエスさまを通して権力、地位を得ようとしているからです。このような弟子たちに、イエスさまはこう言われます。35節の言葉です。「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』」
イエスさまは、弟子たちの議論の理由をご存知だったと思います。だから「だれが一番偉いか」を置いて議論していた弟子たちに、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われたのです。そしてイエスさまは、一人の子供の手を取って、弟子たちの真ん中に立てせられます。当時の子供は今と違って、特別な存在ではありませんでした。子供には、地位も、特権も、何の力もありませんでした。イエスさまはそのような子供を抱いて、弟子たちに福音を受け入れることについて言われます。37節の言葉です。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
子供を受け入れるとしても、特別なものが与えられるのではありません。同じように、イエスさまを受け入れるとしても、特別な対価や地位が与えられるのではありません。福音を受け入れるのは、これと同じです。この世で大事に思われている肉的なもの、お金、名誉、権力のようなものは、一つも与えられません。むしろ福音は、犠牲と十字架、自分を低くすることを求めています。だから、自分たちが得られる特権と地位を夢見た弟子たちは、福音を悟ることができず、さらに恐れていたのです。福音が欲とぶつかると、不安を起こさせたのです。
この世の基準をもって福音を理解するのは難しいだろうと思います。まるで謎と同じように見えるでしょう。福音はこの世が要求することと対立しているからです。この世は、力がすべての基準になると語っていますが、福音は、犠牲と献身がすべてを変えると語っています。この世は、一番先になって仕えられるのが目標だと語っていますが、福音は、すべての後になって仕えることが目標だと語っています。だから、今日の福音書の弟子たちの姿の中で、自分の姿が見えるなら、弟子たちの心を分かってくれないイエスさまがあんまりだと感じられるなら、私たちは、私たちがもっている福音について再び点検しなければならないと思います。「なぜイエスさまは弟子たちにご自分の死について教えられたのか。」「なぜ弟子たちはすべての人の後になり、仕える者になるべきか。」今日の説教は、この謎のような質問の答えになったらと思います。この世と対立している福音を持って生きていく私たちに、神さまの御守りがありますように。神さまが私たちの中に植えられている福音を成長させてくださいますように、主の御名によって祈ります。アーメン