神の言葉と人生

四旬節第1主日 ルカによる福音書4章1~13節

四旬節を迎えました。主イエスキリストのご受難と十字架の死を思い起こしつつ、悔い改めへと導かれるこの季節です。古来より、教会では断食、節制などが奨励さ悔い改めへと導かれるこの季節です。古来より、教会では断食、節制などが奨励されてきましたが、ある人は、自分が断食、節制をしてその身を神様に捧げることは、れてきましたが、ある人は、自分が断食、節制をしてその身を神様に捧げることは、飢飢餓等で苦しむ人との連帯という今日的な意味もあると言います。ただ自分一人が餓等で苦しむ人との連帯という今日的な意味もあると言います。ただ自分一人が精神修行をして神様に近づこうとする季節ではなく、主の十字架における熱くも深精神修行をして神様に近づこうとする季節ではなく、主の十字架における熱くも深い愛を心に宿しつつ、隣人を覚え、祈り、共に生きていくことを我が思いとするこい愛を心に宿しつつ、隣人を覚え、祈り、共に生きていくことを我が思いとするこの四旬節です。主イエスのご生涯、その道行はご受難と十字架であると言えますが、の四旬節です。主イエスのご生涯、その道行はご受難と十字架であると言えますが、主は私たちと同じ人としての生涯を歩まれ、多くの人と出会い、人々との交わりを主は私たちと同じ人としての生涯を歩まれ、多くの人と出会い、人々との交わりを通して、人々の労苦、重荷を我が事として担われ、人々との連帯の内にありました。通して、人々の労苦、重荷を我が事として担われ、人々との連帯の内にありました。貧しい人、病の内にある人、悲しみ、苦しみを負い、罪の重荷に捕らわれ貧しい人、病の内にある人、悲しみ、苦しみを負い、罪の重荷に捕らわれている人、ている人、その人々を見つめられ、憐れみ、御手で触れられて、その人その人々を見つめられ、憐れみ、御手で触れられて、その人たちたちと共に生きていかと共に生きていかれた神の子イエス。私たちが救い主と仰ぐ方は、私たち一人一人と共にいてくだされた神の子イエス。私たちが救い主と仰ぐ方は、私たち一人一人と共にいてくださる方であり、共に歩んで生きてくださるこのお方なのです。る方であり、共に歩んで生きてくださるこのお方なのです。 さて、 さて、主イエスが主イエスが4040日間荒野で誘惑を受けられた聖書の物語から御言葉を聞日間荒野で誘惑を受けられた聖書の物語から御言葉を聞きまきましたした。。悪魔は主イエスの空腹を知って悪魔は主イエスの空腹を知ってその辺にある石ころをパンに変えその辺にある石ころをパンに変え、飢えを満、飢えを満たしたらどうだと言います。飢え乾きは切実な問題です。食糧問題を考えるでしょたしたらどうだと言います。飢え乾きは切実な問題です。食糧問題を考えるでしょう。世界中に満たされていない人たちがいる。その人たちを満たして、救ってあげう。世界中に満たされていない人たちがいる。その人たちを満たして、救ってあげたい。そのためにも、石ころをパンに変えて、そのパンをあなたと同じように、飢たい。そのためにも、石ころをパンに変えて、そのパンをあなたと同じように、飢えているすべての人に、分け与えたらどうだ。その神の力を使えば容易なことだし、えているすべての人に、分け与えたらどうだ。その神の力を使えば容易なことだし、そのための力ではないかとそのための力ではないかと言わんばかりに言わんばかりに、、悪魔は迫ります。悪魔は迫ります。しかし、主イエスはしかし、主イエスは「「人はパンだけで生きるものではない人はパンだけで生きるものではない。。」」と言います。この言葉は、旧約聖書申命記と言います。この言葉は、旧約聖書申命記の言葉から来ています。申命記には、の言葉から来ています。申命記には、「「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」」((申申命記命記88章章33節節))と記されています。確かに、と記されています。確かに、自分の価値観や権威の力を使えば、そ自分の価値観や権威の力を使えば、その食糧問題は解決するかもしれません。食料は行き渡るようになるのかもしれませの食糧問題は解決するかもしれません。食料は行き渡るようになるのかもしれません。しかし、人を真に生かすのは、神ん。しかし、人を真に生かすのは、神様様の言葉であると言います。神の言葉であると言います。神様様の言葉は、の言葉は、必要な糧を私たちに与えてくださる祝福の必要な糧を私たちに与えてくださる祝福の糧として、感謝して頂きなさいというこ糧として、感謝して頂きなさいということを私たちに教えます。とを私たちに教えます。そして、そして、ここで主イエスは食べることを否ここで主イエスは食べることを否定して、神様の定して、神様の御言葉だけを聞きなさいと言っている御言葉だけを聞きなさいと言っているのではないのですのではないのです。。 3/6 「 「この石にパンになるように命じたらどうだ。この石にパンになるように命じたらどうだ。」」この悪魔の言葉は、その問題を解この悪魔の言葉は、その問題を解決するために、手段を選ばなくなるということに通じます。自分が力を発揮決するために、手段を選ばなくなるということに通じます。自分が力を発揮すれば、すれば、空腹が満たされ、食糧問題はなくなるという結果論だけに固執してしまい、その本空腹が満たされ、食糧問題はなくなるという結果論だけに固執してしまい、その本質が問われてきます。質が問われてきます。もちろん、もちろん、神神様様の言葉が直接空腹を満たしてくれるわけではの言葉が直接空腹を満たしてくれるわけではあありませんりません。。神神様様の言葉はその自分の価値観や正しさに危機を促し、命を与えてくの言葉はその自分の価値観や正しさに危機を促し、命を与えてくれる食料の恵みに気づかせ、食料が与えられればいいという結果論に固執する私たれる食料の恵みに気づかせ、食料が与えられればいいという結果論に固執する私たちの思いを開放し、真に生きることができる命の御ちの思いを開放し、真に生きることができる命の御言葉言葉なのなのです。です。 主イエス 主イエスのまなざしと悪魔のまなざしは続くのまなざしと悪魔のまなざしは続く22つめの誘惑の内容でも明確な違いつめの誘惑の内容でも明確な違いが見られます。悪魔は主イエスを高いところにつれていき、世界を見渡しながら言が見られます。悪魔は主イエスを高いところにつれていき、世界を見渡しながら言います。います。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんこれと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」なあなたのものになる。」あなたが一切の権力を持てば、世界は丸く収まるのではなあなたが一切の権力を持てば、世界は丸く収まるのではないかという具合に。あなたが人々の支配者になり、人々を救えば良いと。悪魔であいかという具合に。あなたが人々の支配者になり、人々を救えば良いと。悪魔であるこの私を拝めばそれは叶えられると言います。悪るこの私を拝めばそれは叶えられると言います。悪魔を拝むことで、主イエスが支魔を拝むことで、主イエスが支配者となり、人々を導いていく。しかし、その働き、業は悪魔に軸を置くものであ配者となり、人々を導いていく。しかし、その働き、業は悪魔に軸を置くものであるということ、すなわち悪魔の業であるということを意味します。それは人間のたるということ、すなわち悪魔の業であるということを意味します。それは人間のためではなく、自分のため、自分の力の偉大さを誇ることです。それはまた神様の名めではなく、自分のため、自分の力の偉大さを誇ることです。それはまた神様の名を借りて、また聖書の言葉を借りて、あたかも自分が正しいものであるかのようにを借りて、また聖書の言葉を借りて、あたかも自分が正しいものであるかのように思い込み、人を支配しようとする人間の姿と重なるでしょう。思い込み、人を支配しようとする人間の姿と重なるでしょう。 主イエスは 主イエスは『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と答えられます。悪と答えられます。悪魔に言いつつも、まずその姿勢を自分自身が貫いていくのです魔に言いつつも、まずその姿勢を自分自身が貫いていくのです。支配するのではな。支配するのではなく、仕えるということ。それは神様を愛し、神様に委ね信頼して生きなさいというく、仕えるということ。それは神様を愛し、神様に委ね信頼して生きなさいということです。さらに、主イエスは福音書の中でご自身のことを指してこう言われるのことです。さらに、主イエスは福音書の中でご自身のことを指してこう言われるのです。です。「「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金と人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコして自分の命を献げるために来たのである。」(マルコによるによる福音書福音書1010章章4545節節))主主イエスの方から私たちに仕えてくださるために、近づいてきてくださったというこイエスの方から私たちに仕えてくださるために、近づいてきてくださったということです。悪魔の誘惑を通して見出される自分の弱さ、無力さ。そんな自分を主は裁とです。悪魔の誘惑を通して見出される自分の弱さ、無力さ。そんな自分を主は裁きの眼差しで見つめておられるのではなく、その弱さ、無力さを受け止められ、そきの眼差しで見つめておられるのではなく、その弱さ、無力さを受け止められ、そこに仕えて共に歩んで下さる主イエスは、愛の眼差しに満ちているのですこに仕えて共に歩んで下さる主イエスは、愛の眼差しに満ちているのです。。 4/6 最後に悪魔は 最後に悪魔は「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」」と言い、聖書の言葉と言い、聖書の言葉を用いて、天使が守ってくれるのだから大丈夫だろう、神様を信じているならそれを用いて、天使が守ってくれるのだから大丈夫だろう、神様を信じているならそれができるはずだと言います。主ができるはずだと言います。主イエスイエスは言います。は言います。「「あなたの神である主を試してあなたの神である主を試してははならないならない。。」」主を試すということ、それは疑いからくるものです。本当に神様は助け主を試すということ、それは疑いからくるものです。本当に神様は助けてくれるのか、試してみたい。助けてくれたら信じられる。そこに救いがあるのかてくれるのか、試してみたい。助けてくれたら信じられる。そこに救いがあるのかと思わされるのです。と思わされるのです。 この悪魔の言葉は、主イエスが十字架に付けられたときに、人々の声となるので この悪魔の言葉は、主イエスが十字架に付けられたときに、人々の声となるのです。十字架につけられた主を人々はみて叫びます。神の子なら、自分を救ってみろ。す。十字架につけられた主を人々はみて叫びます。神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてきたらどうだ。そうすれば神様はその苦しみから助けてくれるの十字架から降りてきたらどうだ。そうすれば神様はその苦しみから助けてくれるのではないのかと。しかし、主イエスは十字架から降りられないので、そこで息を引ではないのかと。しかし、主イエスは十字架から降りられないので、そこで息を引き取るのです。「き取るのです。「あなたの神である主を試しあなたの神である主を試してはならないてはならない」それを、身を持ってして」それを、身を持ってして貫かれた主のお姿がそこにあるのです。主を試すところに真の救いはない、あなた貫かれた主のお姿がそこにあるのです。主を試すところに真の救いはない、あなたの望みをただ叶えるところには、本当に満たされるものがないのだと言わんばかりの望みをただ叶えるところには、本当に満たされるものがないのだと言わんばかりに、主はそのご生涯を、神様の御心に委ね、人々と共に歩んでいかれるのです。に、主はそのご生涯を、神様の御心に委ね、人々と共に歩んでいかれるのです。 私たちの只中に来てくださった主イエスは 私たちの只中に来てくださった主イエスはこれらこれらの誘惑に打ち勝ち、弱さ、無力の誘惑に打ち勝ち、弱さ、無力さのある私の存在そのものへの愛を、御心としてお示しくださいました。私たちがさのある私の存在そのものへの愛を、御心としてお示しくださいました。私たちが望む以上に、私たちが真に生かされる道を、主は備えていてくださり、愛をもって望む以上に、私たちが真に生かされる道を、主は備えていてくださり、愛をもってして導いてくださいます。して導いてくださいます。主イエス主イエスご自身が人々との連帯の内に、そのご生涯を過ご自身が人々との連帯の内に、そのご生涯を過ごされ、終えられごされ、終えられました。それは誘惑の現実がある只中で、神様の言葉となられたました。それは誘惑の現実がある只中で、神様の言葉となられた主イエスが私たちの人生の只中に共にいてくださるのです。この信頼と希望をもっ主イエスが私たちの人生の只中に共にいてくださるのです。この信頼と希望をもってして、共に四旬節の時を歩んでまいりましょう。てして、共に四旬節の時を歩んでまいりましょう。 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキ 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。リスト・イエスにあって守るように。アーメン。