ためらわずに行こう

聖霊降臨後第3主日 ルカによる福音書9章51~62節

 イエスさまはエルサレムへと向かう決意を固められたと聖書は言います。
エルサレムとはイスラエルという国の首都であり、政治と宗教の中心部です。首都エルサレムに観光や知り合いに会いに行くだけならば「決意を固める」ということはないはずです。イエスさまの決意とは、中途半端な思い、生半可な思いでは目指すところには決して到達できないというような思いが感じられます。これからエルサレムでとても大切な働きをする、大事なことをなそうというそのような決意でしょう。
「エルサレム」は日本語で「平和の町」という言葉になります。旧約聖書には、神さまがその御名を置くために選ばれた都であり、「聖なる都」や「神の都」という言葉で賛美されている事が記されている町です。イエスさまが「エルサレム」に向かわれる決意を固くされたのは、神の都に向かわれることと同時に、神さまのみ心を見つめ、神さまのみ心をこの世界に成し遂げるのだ、ということを決意したのだということでしょう。
イエスさまの固い決意、それは神さまのみ心を成し遂げ、神さまの思いをこの世界にはっきりと示すということ。つまり十字架と復活の出来事です。イエスさまの決意は揺れることも折れることもありません。なぜならばイエスさまの「決意」とは、イエスさまをこの世に遣わされた神さまの「決意」だということができるからです。その神さまの「決意」とは、人を憎み、裁き、滅びに至らせることではなく、人を愛し、ゆるし、信じる者に永遠のいのちを与えるというものでした。神さまの愛とゆるしの思い、その決意はサマリア人の村での出来事にはっきりとあらわされています。
 決意を固められたイエスさまは、ためらいも、迷いも、避けることもなくサマリア人の村を通って行かれます。当時ユダヤ人とサマリア人とは犬猿の仲であり、とても仲が悪かったそうです。ですから案の定、イエスさまはサマリアの人々には歓迎されませんでした。そのことに腹を立てた弟子のヤコブとヨハネの兄弟が言います「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と。この言葉を聞いてイエスさまは弟子たちを戒められます。
 どうしてイエスさまは歓迎されないであろうサマリア人の村を通ったのでしょうか。それは彼らにも、イエスさまを歓迎しないそのような人々にも救いの道が開かれている、あなたにも救いの道は開かれているんだ、神はあなたのことをみ心に留めているよ、ということを示すためにでしょう。
 イエスさまは、歓迎できない人、迷いや疑いのある人の心にも足跡を残し、信じて、ためらうことなく、迷うことなく、ついて来てくれることを望み、願い、求めておられるのです。
 サマリア人を避けて通るならば、それは神さまのみ心ではないでしょうし、もしサマリアの人々が救われないとしたなら、救われる人は誰もいないんじゃないか、と言っていいのではないでしょうか。なぜなら、この後イエスさまはユダヤの人々にも避けられ、拒まれ、捨てられてしまうからです。
さらにはこのときイエスさまの側近としてふるまい語っていた弟子のヤコブとヨハネは、サマリア人の時はイエスさまが歓迎されないと腹を立てたくせに、同胞のユダヤ人の時には何にも言わず、そして彼らもイエスさまを見捨てて逃げてしまうわけです。
誰でも歓迎されていた、受け入れられていたと持っていた人に避けられ、裏切られ、見捨てられるということほど辛いものはないでしょう。弟子たちはそれぞれに決意をし、信じてイエスさまと共に旅をしてきた人たちです。しかしその弟子たちも周りの人々と同じようにイエスさまから離れて行ってしまったのです。弟子たちの決意と信頼とは脆くも崩れ去ってしまいます。
ここに私たち人間のもつ弱さや、脆さ、破れ、限界を感じとるわけです。そして人はそのような弱さや脆さ、破れをもつ自分自身をしっかりと見つめて、自分のこととして受け止めることができるときに謙虚な者、へりくだる者とされ、人のもつ弱さや、脆さ、欠けや破れに対してすぐに腹を立てたりたりするのではなく、寛容であろうとする、ゆるしてあげようとすることができるのではないでしょうか。
イエスさまは徹底的に神の愛と、ゆるしと、平和を人々に示し続けました。神さまのあたたかさ、ぬくもりをもって人々の心に触れ、人々の心に足跡を残されるのです。
私があのとき避けてしまった、拒んでしまった、受け止めることができなかった神さまの深い愛に気づき、愛である神に、真の神さまに向き直るとき、向き直ろうとするときに、イエスさまが心に残してくださった足跡が人々を、私たちを神さまの方へと導いてくれるのです。
弟子のヤコブとヨハネもイエスさまが心に残してくださった足跡を頼りに、愛である神さまに向き直ることができ、人々にサマリア人の村で起きたあの日の出来事を語り聞かせていった。そして、あの時にも、いつも、いつでも弟子たちに示され続けたイエスさまの愛は、福音となって語り続けられ、人々の心に触れ、人々の心に消えることのないイエスさまの足跡を残し続けているのです。
イエスさまは人々に「わたしに従いなさい」と言われました。そう言われても、戸惑い、迷い、ためらう人の姿があります。いろいろな事情や、いろいろな人に左右されてしまう人々の姿があるわけです。
私たちがこの道だと信じて歩むべき、生きるべき道はどこなのか。自分自身と、そして私たちが大切にしている人々の平和と幸せのために信じて、信頼して、歩むべき道はどこにあるのか。その道を指し示すために、私たちが生きるべき道をあらわすために、イエスさまは固い決意をもってエルサレムへ、そして十字架へと進みゆかれたのです。
この世界と、私たちをこよなく愛されるがゆえに、私たちの救いと、平和のためにイエス・キリストはご自身のすべてを与え、ご自身のいのちを差し出す決意をされたのです。
ご自身のいのちよりも、何よりも、神さまの思いを優先し、私たちが救いを得て、平和に、平安に、安心して生きるための道を開かれたのです。
私たちは、私たちを深く、限りなく愛してくださる神さまに何を差し出すことができるでしょうか。それは、ただただ信じて、私たちのすべてをゆだねていくということ、私自身を差し出すということなのではないでしょうか。そして、イエスさまが人々の救いと平和のために固く決意したその熱い思いに背を向けたり、自分の都合のいいように捻じ曲げたりせずに、平和のために、自分と、そして愛する人の幸せのために、与えられたいのちを大切に生き抜くということなのではないでしょうか。
イエスさまは歓迎されることのないサマリア人の村をためらうことなく通り、人々から捨てられ、裏切られ、十字架につけられるエルサレムへと向かいました。この世界と、私たちを愛し尽し、ゆるし抜き、必ず神さまのみ心を成し遂げるために。
歓迎してくれない人を憎み、腹を立てることはとても容易なことです。そして、その人を愛すること、ゆるすことはためらい、迷い、難しいことだと感じてしまうどうすることもできない私がいるのです。だからこそイエス・キリストが示してくださった人の在るべき道、依るべき道、生きるべき道が私には、私たちには必要なのです。
ためらうことも、迷うことも、戸惑うこともある私たちですから、いつでも主イエスは「わたしに従いなさい」という言葉を投げかけ、呼びかけ、語りかけ、共に生きよう、共に歩んで行こうと招き続けてくださっています。
イエスさまの固い決意の表れである十字架を見つめ思いつつ、イエスさまが示してくださった愛と、ゆるしと、平和の道を信じて、勇気を持って一歩踏み出していきましょう。キリスト共に歩む一歩が平和につながる一歩、私たちの未来を変えてくれる一歩だと信じて。