聖霊降臨後第12主日 ルカによる福音書14章1,7~14節
今年の夏も暑い日が続きました。残暑も厳しそうです。世界的に異常気象で熱波がいたる所をおおい、多くの方が亡くなられたと聞きます。
ある社会学者の調査で、自宅にエアコンがあると死亡リスクは80%下がるといっていました。確かにこの暑い夏にエアコン無しで過ごすということは、ある意味自殺行為といえるかもしれません。
もう一つ、その社会学者は、熱波の中で人々の死亡リスクを下げ、生存率を大幅に高めているものがあるといっていました。それは、誰かと密接な繋がりがあるということが、生存率を大幅に高める、ということでした。ペットでも密接な繋がりがあると生存率が高まるそうです。
また、ある心理学者は、誰かとの密接な繋がりがある人、ペットの密接な繋がりがある人は、うつ病になるリスクがとても低くなる、といっていました。
私たち人間は誰かとの繋がりが必要な生きものなんです。もっと積極的に言って、私たち人間は、私たちにいのち与え、私たちをお造りになった、創造主なる神さまとの繋がりが必要なんです。
当然、私たちにいのちを与えてくださった神さまはそのことを知っていますから、天地創造の初めから今このときに至るまで、私たち人間に、様々な出来事を通して呼びかけ、語りかけ、働きかけ、関わり、繋がり、交わりをもとうとしてくださっている。だけど、そんな創造主なる神さまの存在を無視し続けて、逆らって生きて続けて、破滅へのリスクを高め続けている人間の姿がある。その人間の姿を聖書は「罪」だといっている。
だったらもう自分たちの勝手にしろ!もうあなたたちとは関係ない!あなたたちがどうなろうが知ったことではない!と神さまは言わなかった。神さまは、いのちを与えたあなたという存在を、深い憐れみと尽きることの無い愛をもって、どうにかして守りたい、支えたい、救いたい。だから神さまは、この世界と私たち人間との関わりを持ち続けるため、繋がりを保つために御子イエス・キリストを与え、聖霊を与え、聖書のみことばを与え、教会を与え、共に祈り賛美する家族を与えてくださった。
私たちが、この週に一度の礼拝を守り続ける、与り続けるのは、私たちの存在の根拠であり、いのちの源である神さまとの確かで、密接な繋がりを全身全霊で感じ取ることができるからではないでしょうか。そして私たちにいのちを与えてくださった神さまだから与えることのできる生きる力、勇気、希望、平安を私たちは得ることができるから、この礼拝のときを大切に、大事に、必要としているのではないでしょうか。
神さまとの繋がりと、神さまが与えてくださった主にある家族との繋がりを持つことができること、保つことができることは私たちにとって大切なもの、大事なものだと思います。
さて、今日の福音書は「安息日のことだった」という言葉ではじまります。「安息日」はモーセの十戒にもあるように神さまがユダヤの人々に与えた戒めです。週に一日、一切の労働をせずに、世間の事柄から離れて、いのちの源である神さまとの密接な繋がりのときを持つこと、そして、神さまが結び合わせてくださった家族や共同体との繋がりを大切にし、共に祈り賛美することを大切にするために与えられた律法です。
神さまは、安息日が人々にとって、神さまとの確かな繋がりを感じ、そして神さまが結び合わせてくださった人々の確かな繋がりを感謝して、痛みや、悲しみ、苦しみが和らげられ、神さまの祝福に満たされ、生きる力と平安を得ることのできる一日となってほしいのだと思います。
だから、イエスさまは、安息日に一切の労働をしてはならないという教えがあっても、なんのためらいもなく病の人を癒やしていきます。
むしろ、神さまとの密接な繋がりを確かなものとし、神さまの祝福と恵みとを受けるにふさわしい安息日であるからこそ、イエスさまは、神さまのみ心を示すために、痛みや、苦しみ、悲しみを抱える人に声をかけ、手を差し伸べ、神さまの祝福と平安とを与えたのではないでしょうか。
しかし、イエスさまが安息日に人を癒やすという行為を素直に受け入れることができない、喜ぶことができないユダヤ人達がいました。その多くが宗教的指導者たちで、残念ながら彼らの心を蝕む差別意識や、不寛容さ、傲慢さ、神さまのみ心から逸れた自己中心的な態度から共同体の分裂、分断が生じてしまうわけです。
そんなことを神さまが望んでいるわけがありません。イエスさまは、宗教的指導者たちが囚われている上下、優劣、善悪の差別意識から彼らを解放しようとして、自分を低くすること、へりくだることを呼びかけ、神さまの御心を教え、導きます。イエスさまは、神さまの祝福と、恵と、愛に満ちあふれた、自由で、あたたかで、和やかで、創造的な人間の共同体をつくっていこう、と彼らに、そして今を生きる私たちに呼びかけ、教え、導くわけです。
さらに、イエスさまは神さまの御心を示していいます。宴会を催すときには人々から差別の意識を向けられ、招かれざるものとして社会の周縁に追いやられがちな人々を招き、一緒に食事をしなさいと。
イエスさまが示す、神の国のテーブルマナーはただ一つです。みんなで一緒にする、ということです。聖書を見れば、イエスさまは上級だ、優秀だ、善良だ、という人とだけ一緒に食事をしたのではありませんでした。ファリサイ派の人々や、罪人たちや、病の人や、体の不自由な人たちとみんなで一緒に食事をしていました。
イエスさまがみんなを招き、みんなで過ごし、みんなで一緒にしていた食事は、神の国の晩餐、祝祭、祝宴のひな形であり、先取りであり、目に見える神さまの恵と祝福のときでした。
神さまはみんなを招いているし、みんなを愛している。それはみんなが上級だから、優秀だから、善良だから、修行を積んだ、献金を積んだ、徳を積んだからではなく、みんなが神さまによっていのちを与えられた、唯一無二のかけがえのないいのちの存在であり、神さまの愛する子どもだからです。
神さまが与えてくださったイエス・キリストのいのち、十字架の死と復活の出来事は、すべての人の罪のゆるし、滅びからの救い、永遠のいのちの約束のためにあったことです。そこに分け隔ては一切ありません。
私たちは、イエスさまが示してくださった神の国のテーブルマナーを守って、自分を低くして、へりくだり、みんなで一緒に神さまの祝福と恵とに満ちあふれた、自由で、和やかで、創造的な、繋がりのなかで生きていくもの、生かされていくものでありたいです。
日本でキリスト教は、まだまだ敷居の高いもので、厳しくて、暗くて、キツイものだと思われています。イエスさまが示してくださった福音はそんなものではない!キリストの福音はもっと自由で、和やかで、あたたかで、やわらかいものなんだ、ということを私たちはもっと大胆に発信して、伝え、届け、知らせていくものでありたい。みんなでキリストの福音を喜び、感謝して、賛美して、活き活きと、のびのびと生きていきましょう。