聖霊降臨後第16主日 ルカによる福音書16:19~31
皆様、お金や富が好きですか。私は、お金のことが好きかもしれないと思います。世の中で富を嫌う人は、ほとんどいないでしょう。私も同じ人間だと思います。先週、私たちはイエス様のたとえの中で、不正な管理人のたとえを聞きました。この言葉は、お金、富と関係のある言葉でした。そして、先週の福音書の次の節である14節には、イエス様のたとえを聞いたファリサイ派の人々の反応が書かれています。14節の言葉です。「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」ルカによる福音書は、ファリサイ派の人々がイエス様のたとえをあざ笑ったのは、お金に執着しているからだと言っています。そして、今日の福音がつながります。今日の福音もこのお金、富と関連がある言葉です。つまり、ルカによる福音書16章は、お金と富についての言葉、お金に執着して、神様よりお金を愛する人々に向ける言葉なのです。
それだけでなく、ルカによる福音書はお金について、貧困と富について頻繁に語っています。ルカによる福音書1章には、他の福音書に書かれていない「マリアの賛歌」が書かれていますが、53節にはこのように書かれています。「飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」ルカによる福音書6章には、マタイによる福音書の山上の説教、「貧しい人は幸いである」と似ている言葉が書かれています。しかし、ルカによる福音書には、貧しい人々に対する慰めだけでなく、お金持ちに対する裁きが書かれています。ルカによる福音書6章24節の言葉です。「富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」マタイによる福音書の山上の説教では、この言葉、お金持ちに対する裁きの言葉が書かれていません。そして、ルカの次の本である使徒言行録では、財産が貧しい人々に分けられていることが書かれています。使徒言行録2章44~45節の言葉です。「信者たちは皆一つになって、すべての者を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」
このようなルカによる福音書の教えは、私たちに与えられた富と財産をどのように扱わなければならないのかを教えています。何が神様の教えに従うことか、何が信仰なのかを教えているのです。一部の人々は、信仰というものは、神の命令に従うこと、真理を求めることだと思うでしょう。しかし、それだけが唯一の信仰だとは思いません。信仰というものは、イエス様の中から苦しんでいる人々を見つけることです。そして彼らのために祈り、行動すること。これが信仰だと思います。私たちのスピリチュアリティは、霊的なことだけにあるのではありません。貧しい人々に手を差し伸べ、彼らと共に喜び、共に泣くのが、私たちが求めなければならない霊性なのです。そして今日の福音は、私たちにこのような霊性について、富の分け合いについて教えています。
今日の福音書は、私たちに対照的な場面を繰り返して見せています。最初の対照される場面は、19節と20節の場面です。19節の言葉です。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、每日ぜいたくに遊び暮らしていた。」19節は、お金持ちの生活を私たちに示しています。お金持ちは、紫の衣や柔らかい麻布を着ていたと語っていますが、この紫の衣と柔らかい麻布は、当時のローマの上流階級、又は彼らをマネしたかったユダヤの貴族たちが着ていた服だそうです。そのため、イエス様がこの服について言われたとき、群衆は自然に社会支配階級を思い出していたでしょう。そして、イエス様はこの金持ちの姿に対照された貧しい人の姿を言われます。20~21節の言葉です。「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」
この二人は、正反対の状況と姿を持っていました。一人はすべてが豊かで、もう一人はすべてが貧困でした。一方は食べ物が残って捨てており、もう一方はその捨てられた食べ物で腹を満たしたいと思っていました。一方は高級な服を着ていましたが、もう一方は体を隠す服さえもなかったので、犬が彼のできものをなめるくらいでした。彼らは非常に近い所で生きていましたが、ラザロはお金持ちの門を越えていくことができませんでした。すべてのこと、すべての状況が違いました。しかし、彼らにはただ一つ同じことがありました。それは、死でした。お金持ちや貧しい人、力のある人や力のない人、世の中の皆には、同じ死が与えられます。22節では、この二人の死について書かれています。そして、この死は二人の状況を完全に変えていました。23節は、ひっくり返ったラザロとお金持ちを姿が示されています。23節の言葉です。「金持ちは陰府(よみ)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」
状況は変わりました。金持ちには苦しみが、ラザロには平安が与えられました。お金持ちは、生きているうちに一度も経験したことのない苦しみの中から、宴席にいるラザロを見ました。これは死ぬ前のラザロがいつも見ていたお金持ちの姿だったでしょう。お金持ちは、アブラハムに舌を浸すくらいの水を求めます。しかし、アブラハムはお金持ちに、生きているうちのことを思い出しなさいと言って、お金持ちの要求を断ります。そして、お金持ちと自分たちの間には大きな淵があって、渡ることができないと言います。私は、これが生きているうちのお金持ちとラザロの間にあった門だと思います。お金持ちは、一度もラザロを自分の家の中に入れたことはなかったと思います。もしあれば、金持ちはアブラハムに自分のしたことを言ったでしょう。同じように、お金持ちもアブラハムとラザロがいる所に入ることはできませんでした。
このような状況でお金持ちは自分の兄弟のことを思い出します。自分と同じく生きている兄弟たちにラザロを遣わし、自分のように苦しい場所に来ることのないように、よく聞かせてくださいと言います。しかし、これさえも拒まれます。すでに神様は、律法と預言者たちを通して貧しい人々を助けることをおっしゃったからです。法律と預言者たちの基本的な要求は、すべてが隣人に関連することでした。十戒でも、第4の戒めから第10の戒めまでが隣人に関する戒めです。お金持ちもユダヤ人であったので、隣人についての戒めと法律をよく知っていたでしょう。しかし、お金持ちは隣人を助けませんでした。お金持ちがラザロの状況が分からなかったはずがないでしょう。ラザロがお金持ちの門前にいたからです。金持ちはほぼ毎日出入りしながらも、彼を自分の家に入れることも、助けることもしませんでした。このような基本的な戒めを守っていない人々には、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れられはしないでしょう。隣人の律法に従わない人々は、復活なさったイエス様に従うはずがないと思います。
私たちの霊性は、霊的なことだけにとどまることはありません。キリスト教の霊性は、行動するものであり、助けるものであり、自分の十字架を背負うものです。見て見ぬふりをするのは、私たちの霊性ではありません。だから、私たちは常に隣人のために祈り、富を分かち合い、手を差し伸べなければなりません。現在、私たち飯能ルーテル教会では、教会の定期的な支援以外も、落穂ひろい献金、世界のための祈りと献金を別々に払っています。ある方は、こんな小さな教会で献金するところが多すぎると思われるかもしれません。しかし、今日の福音書の教えは、私たちが捧げているこの献金と支援がクリスチャンとしてしなければならないことだということを教えてくれています。隣人を助けてください。目に見える彼らの事を背けてはいけません。彼らと共に喜び、共に泣いて下さい。これが私たちに向けられている神様の御心なのです。神様が行動する皆様に天の糧を与えてくださいますように。皆様を通して神の国がこの世に来ますように、主の御名によって祈ります。