議長だより(教会だより2024年3月号)
2024.3.26
歴史は勝者が記すので、自分たちがいかに正義で、相手がどれだけ悪だったか、実際以上のことや、時には本当は無かったことまで書かれていたりします。しかし、聖書は不思議な書物で、ノアやダビデといったヒーローのような人物でも、必ず悪いところが書かれています。福音書も、弟子たちがいかに無理解であったかが、ずっと記されていたりします。十字架の出来事でも、弟子が逃げてしまったこと、ペトロが裏切りの言葉を3度吐いたことが記されています。
「復活」は、信仰生活が長くなると、当然起こったこととして体に染みついてしまったりしますが、聖書を読むと、復活がいかに信じがたいことかが、よく記されています。マルコでは、イエスさまの復活を告げられた婦人たちが、震えあがり、正気を失い、恐ろしくて誰にも言わなかったと書かれています。マタイでは、弟子たちが復活の主に出会いながら、「疑う者もいた」、と書かれています。ルカでは、婦人たちに復活を告げられた弟子たちは、たわごとのように思われ、信じなかったと書かれています。パウロがアテネで、復活の話を始めた途端、「それについては、いずれまた聞かせてもらおう」と言って立ち去られてしまいます。復活は、賢いもの、知恵のあるものほど、躓きの石です。死と命に関しては無力なものとして、幼子のようなものになって、神さまに助けを求めるものとならなければ、見えてこない希望です。だから、宣教は難しいのだと思います。しかし、神さまが、宣教という愚かな手段を用いて、人を救おうとしていますから、愚直にこれからも共に宣教していきたいと思います。
吉田達臣