キリストの心(教会だより2022年4月号)
2022.4.12

「イエスさまの十字架」

 四旬節を過ごす中で、イエスさまの受難を、私はどれほど理解しているのかと自問しています。イスラエル人にとっての十字架刑は、肉体的な苦痛というだけでなく、神さまから見捨てられるという意味でもありました。父なる神さまと共にいつも歩まれていたイエスさまにとっては、神さまから離れるということは、最も辛い刑です。それをイエスさまは、汗が血の滴り落ちるように苦しむ祈りの中で受けとめられました。そのイエスさまを見つめる時、イエスさまほどに、愛そのものである父なる神さまから離れてしまう罪の怖さを自覚できない自分に気付かされます。

 今、ウクライナは大変な状態の中にあります。平和の道をと願う祈りの中ですら、プーチンに対する憤りを覚え、このような指導者を抹殺したくなる自分がいます。パウロは「人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」と言います。ウクライナの人たちを思うその奥で、自分の事を棚に上げて人を裁いてしまう自分の傲慢さに気付くとき、イエスさまは、こんな私のために十字架にかかってくださったのだと、あらためて感じさせられます。

(北海道地区宣教アドバイザー 粂井 豊)