キリストの心(教会だより2022年6月号)
2022.6.13
「故郷の言葉」
私の出身は山に囲まれた小さな町、秩父です。4月から5月にかけての芝桜がこのごろは有名です。昔は埼玉県の中の秩父県と言われ、それだけへんぴな町と見られていました。確かにそうなのですが。その秩父の方言といえば語尾を「~だんべえ」とする言い方があります。大学生になって秩父を離れ50年にもなろうかという私。すでに両親を送り、昨年は他県に住む兄から実家を売却したと連絡をもらい、どんどん故郷が遠くなった感があります。
ところで、私は定期的に黙想会に加わっています。そこでは主に心を向けて、尋ねる祈りをしています。先日、聖霊降臨の箇所に訊きました。ご存じのように聖霊降臨は聖霊に満たされた者たちによって、いろいろな故郷の言葉が告げられたわけです。故郷の言葉で神の偉大な業が語られた。私にとって「故郷の言葉」は何だろうと思い巡らせます。これは私にとってどういう意味ですかと尋ねます。しばらく沈黙し、待ちます。すると、「せやあねえ」という方言が突然聞こえてきました。せやあねえ。ああ、なんて懐かしい言葉だろうか。忘れかけていた故郷の言葉です。それが今、私の心を揺らすように聞こえてきます。父の声で、また母の声で、温かく、優しく響きます。「大丈夫だ、世話はいらない」という意味です。何か心配顔の子どもの私がいて、せやあねえよと母が言ってくれ、せやあなかんべえと父が励まします。私にとって故郷の言葉はこれだった。まったく久しぶりにこの故郷の言葉を両親から聞いたお祈りでした。それは同時に「何を案じているのか、大丈夫だ。」と主キリストが語ってくださったお祈りでした。皆さんの故郷の言葉がそれぞれに響きますように。
(東京ルーテルセンター教会牧師 齋藤衛)