キリストの心(教会だより2023年10月号)
2023.10.16
「祈り」ルカによる福音書18章1~8節
私たちは、生まれたときから祈りを知っていた。幼い子どもの姿を見ても、彼らが祈りを知っていることが分かる。
聖書の中に「やもめと裁判官のたとえ」という話がある。その前段として、イエスさまは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、このたとえを話されたと書かれている。その内容は、ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいたところから始まる。そこに一人のやもめが来て、この裁判官に「相手を裁いて、私を守ってください」と訴える。この裁判官はしばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、ひっきりなしにやってくるので、うるさくてかなわないから、裁判をしてあげることにする、という話。こんな裁判官でも、求めを聞くのに、神さまが放っておくはずがない、と結ばれている。読んで思ったことは、このやもめは、手を組んで祈っているわけではない、ということ。諦めずに、何とかしようとし続けること、その中にこそ、祈りがある、ということ。諦めずに訴え続けること、赤ちゃんはそれを繰り返し、幼子はしつこいぐらいにそれをする。
祈りとは、手を組む回数、手を組む時間ではない。諦めずに、求め続けること。人生の中で、求め続けた結果、道のないところに道が与えられ、無理だと思っていたものが実現する、そういう経験を何度かしている。
この話の最後でイエスさまは、「しかし、人の子が来る時に、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」と締めくくられている。幼子の頃、あんなにあきらめずに求め続けていたものが、今は根源的な求めをしなくなっているのかもしれない。
苦しいことや難しいこともいくつもある。それでも祈りましょう。諦めずに、何とかしようとし続けましょう。諦めの悪いあなたは、祈り人です。
(札幌中央ルーテル教会牧師 吉田達臣)