キリストの心(教会だより2024年5月号)
2024.6.7
キリストの心
教会の信徒のお一人に旧約聖書を丹念に読むかたがいます。丹念にというか、それは「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように」(詩編42編2節)の言葉が合っているかもしれません。そんなきれいな図ではないと本人は否定するでしょうが、私にはそう思えます。詩編はこう続けるからです。「神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める」と。
彼の人生にあった理不尽や労苦をこれまでうかがってきました。もう25年ほども牧師と信徒として歩いてきていますから、少しは感じ取っています。あえぎ求めるようにして聖書の言葉に聴いてきた彼は、一年に数回突然電話をかけてきては聖書の質問をされます。私は聖書を開いて電話口で受け答えします。どう答えたら良いか分からずタジタジの時があり、平行線で終わる時もあります。時にドキッとさせられる指摘もあります。
先日の電話で彼が教えてくれたのは、イザヤ書66章2節「私が目を注ぐのは 苦しむ人、霊の打ち砕かれた人 私の言葉におののく人」(聖書協会共同訳)でした。彼が今たどり着いたみ言葉です。改めて神が私に求めていることを明らかにされた思いでした。それは苦しんだらいいということです。打ち砕かれたらいい、おののいたらいい。神はそういう者をこそ求めている、そしてそういう者にこそ目を注ぐ。苦しむ者にはなんと慰め深い言葉だろうか。あえいだ末にたどり着いた彼の苦闘の道の重さを思いました。そして、このみ言葉を一緒に分かち合えた幸いに感謝しました。
(東京ルーテルセンター教会牧師 齋藤 衛)