キリストの心(教会だより2024年6月号)
2024.6.14
『時を見分ける』
ルカ12章56節
中学、高校、大学の、それぞれの時代の友人との付き合いの中で、その時々の、自分が置かれている『時』のようなものを、ことさら、意識させられることがありました。ある時期には、結婚式への招待状が、数年間の間に集中して届けられることがありました。「ああ、彼らも結婚かあ。自分もそんな年なんだなあ」。それから折々に、ポツンポツンと転勤による引っ越しの挨拶状がありました。「ああ、彼らも会社で、中堅選手なのかなあ。この自分はどうかなあ」。それからしばらくして、お正月の欠礼の挨拶が、ポツンポツンと届けられるようになりました。「ああ、彼らの親御さんも、そんな年齢なんだなあ。自分も、他人ごとじゃないよなあ」。それから、同窓会で久しぶりに会った友人たちから、スマホの孫の写真を、嬉しそうに見せられる時が何回か続きました。「自分も、見せられる時が来ないかなあ」。そして最近は、近くに住む共働きの娘夫婦から、孫の世話のSOSが発信されるようになりました。これは継続中です。
イエス様はたとえ話を、しばしばされます。仲間や家族や自然の風景をよく観察され、それらを大切に思われているからでしょうか。そんなイエス様ですから、折々の置かれている『時』の流れの中に、一本の筋道を通すように、働いてくださっているのかなと、来し方を振り返る毎に、気づかせられているのです。
(戸塚ルーテル教会牧師 清水 臣)