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ヨハネによる福音書13章31~35節   (5月19日説教要約)

イエスの名によって集まる共同体。神さまの創造性を実現するところです。みんな違ってみんないい。多様な世界です。しかし、まるで神の創造性を嘲笑うかのように、人と人との間に、人が神との間に摩擦を起こす。とても悲しいことです。

イエスが選ばれた十二人の弟子たち。イエスが作った共同体です。そこにも摩擦が起きていました。誰が偉いのだろう?誰がイエスの右と左に座れるのだろう?会計のごまかし。思うことと行うことの相反する人のあり方。イエスはその弟子たちと食事をした後、彼らの足を洗い、仕えることの模範を示してくださいました。その中にはイスカリオテのユダもいます。ユダは、イエスを殺そうとしている祭司長たちに、いつイエスを売りつけようかと虎視眈々機会を狙っていました。そして、今やイエスの共同体から出て行きます。

「さて、ユダが出てゆくとイエスは言われた。今や人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」。イエスと神はユダが共同体から出て行ったことによって栄光をお受けになったというのです。それは、ユダが神とイエスに栄光をもたらす働きをしているということでしょうか。そのためにユダは生まれたと言うのでしょうか。このことは長いキリスト教の歴史の中で、ユダの個人の責任として追求され、悪人としてどれだけ裁かれてきたことでしょう。それは、自分自身を「善人」として見出し、自分自身のあり方に誇りをもっている人々によってです。

わたしたち人間は大自然といっしょに神さまの栄光のために造られた尊い一人ひとりです。どんな国の人でも、貧富の差関係なく、健康であってもなくても、あらゆる壁を越えて、一人ひとりは大切な神さまの者、神の栄光を現す者です。だからといって何か立派なことをしなければならないということではありません。大自然がそうであるように、その生き様の中で自然に神さまを現すように造られたのです。

けれども、私たちは、欲望のささやきに耳を傾けて生きる者ですから、無理していらないものまで背負って生きてしまいます。自分のものでもないものを私のものと思い込んで手放さないのです。命と変えられるものは何一つないのにあれもこれも私のものとしがみついているのです。そんな中では、悪も善も識別されなければ、個人においても共同体においても摩擦を起こす原因を作るものは出ていきません。

私の中にユダ的な存在があるのです。仲間たちともうまくいかなければイエスとも神さまともいい関係作りができない、闇の力が私を支配しようとしているのです。それが外へ出てゆくようにする。それを助けるのが共同体の仲間でしょう。悪の働きが外へ出てゆくことによってイエスも神も栄光をお受けになるということ。

そして、ユダが出てゆくとイエスは、「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。それによってあなたがたが私の弟子であることを知るためである」と、ご自分の共同体に新しい戒めを与えてくださいました。互いに愛し合うために要らないものを思い切り手放せる幸いを生きたいです。