五十日後の約束

聖霊降臨主日 ヨハネによる福音書20:19~23

 今日は聖霊降臨主日です。ペンテコステ(Πεντηκοστή) とも言いますよね。ペンテコステという言葉は、順序数として五十という意味です。この言葉は、新約聖書では と20章16節、コリントの信徒への手紙一16章8節に書いてありますが、私たちが聖霊降臨として記念している箇所は、使徒言行録2章1節の言葉です 。使徒言行録2章1節の言葉を見てみましょう。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、」ここでの五旬祭は τὴν ἡμέραν τῆς πεντηκοστῆς (テン・ヘメラン・テス・ペンテコステス)と言いますが、50番目の日という意味です。この日は、もともとユダヤ教の祭りでした。ユダヤ教ではこの日をシャブオット、七週の祭りと言います。過越祭の後、7週が過ぎた翌日から始まる祭りとして、大麦を収穫して神様にささげる祭りです。これは、出エジプトをしたユダヤ人たちがカナンの土地に落ち着いた後、最初に収穫した実であった大麦を神様にささげたことから始まりました。そして、モーセがシナイ山で十戒を受けたのも、出エジプトの後、50番目の日であったので、新約聖書の時代になる前(中間時代)のユダヤ人は、七週の祭りを律法を受けた日としても、守り始めました。しかし、イエス様はこの日、弟子たちに約束された聖霊をお遣わしになりました。何か特別な意味があると思います。

先週の福音書は、イエス様の昇天についての言葉でした。イエス様は、昇天の前、弟子たちをエルサレムからベタニアの辺りまで連れて行かれます。そして、ベタニアで天に上られました。私は、これが第2の出エジプトを意味することだと思い、先週の主日でもそのように説教しました。モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出したように、イエス様もご自分の弟子たちをエルサレムから導き出したのです。神様が、導き出したイスラエルの民を通して新しい国を立てられたように、イエス様も、新しい共同体を立てられたのです。ユダヤ教ではなくキリスト教、既存の律法ではなく完成した律法、一つの民族の神様ではなくすべての民族の神様。これを成し遂げるために、イエス様は象徴的にエルサレムから弟子たちを連れて行かれたと思います。このことが起こってから十日の後、イエス様の復活後50番目の日、イエス様はユダヤ人の七週の祭り、律法授与を象徴する日に聖霊をお遣わしになりました。そして遣わされた聖霊は、いつでも弟子たちを導き、イエス様の御言葉の前に連れて行かれるのです。これを記念する日である今日、福音書の言葉はヨハネによる福音書20章の言葉です。今日の福音書は、イエス様の復活の後、弟子たちとの最初の出会いを記録していますが、この出会いの中で、聖霊が言及されて勧められます。それでは、今日の福音書19節の言葉から見ましょう。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」

復活されたイエス様が弟子たちと出会ったとき、弟子たちは恐れの中にいました。イエス様のように殺されるかもしれないという思いに落ち込んで、イエス様の言葉と約束を忘れてしまいました。しかしイエス様は、ご自分の言葉通りに復活され、弟子たちのところに現れました。家の戸にはみんな鍵がかけられていましたが、イエス様は来られ、弟子たちの真ん中に立たれました。そして恐れの中にいる弟子たちに、平安を伝えられました。「あなたがたに平和があるように。」私はこの言葉を読んで、家の戸に鍵をかけていたということが印象に残りました。多くの人の心には、家の戸があると思います。信徒である人でも、信徒ではない人でも、家の戸はあります。そして、その戸は開いている時も、鍵がかけられている時もあります。戸が開いている時は、平安で、安定的です。神様を愛し、隣人も愛します。貧しい人を助け、良いことのために協力します。しかし、この戸がいつも開いているわけではありません。あらゆる理由によって、自分がこの戸に鍵をかける時もあります。今日の福音書の弟子たちの場合は、恐れによって戸に鍵をかけました。ある人は失敗によって、ある人は誤解によって、ある人は病気によって、ある人はプライドによって、自分の戸に鍵をかけることがあります。自分を守るために、誰も自分の家に入らないようにするのです。

しかしイエス様は、その家の中に入られます。自分の家の戸に鍵をかけるのは、良いことではないからです。それでイエス様は、鍵がかけられている家の中に入られ、平和を伝えられます。恐れに勝つことができるように、失敗と誤解と病気とプライドから回復することができるように、イエス様は天の平和を伝えられます。そしてその平安によって、私たちは、再び自らの戸を開き、神様の御心に従うことができるのです。隣人を愛し、良いことを行い、神様の言葉を実践するようになるのです。イエス様の平和が、このことを行うことができるようにしてくださるのです。イエス様はこの平和の言葉を再び伝えられます。今日の福音書21節の言葉です。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」

ユダヤ文化で繰り返したり、重ねて言ったりするのは、言葉を強調する意味があります。イエス様は、ご自分から派生した平和を強調されるのです。イエス様に従う人は、天の平和を得るのです。しかし、この平和は、彼らの中にだけとどまらないのです。過去のユダヤ人が自分たちのために律法を所有していたようには、ならないのです。この平和は、他の民族にも伝えられるのですが、これは、神様がイエス様をお遣わしになったように、イエス様も私たちをお遣わしになるためです。自分だけの平和ではなく、みんなの平和のために、自分だけの救いではなく、みんなの救いのために、イエス様は私たちをお遣わしになるのです。これがイエス様の平和が私たちに与えられた理由なのです。そしてイエス様は、このために聖霊を受けなさいと言われます。22節の言葉です。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」

私たちの中に入られた聖霊は、私たちをイエス様の平和の中にとどまることができるようにします。そして、この平和を世の中に伝えるようにするのです。今日の聖書朗読の最初の言葉は、使徒言行録2章1節から21節の言葉でした。この言葉は、聖霊の降臨のときに起こったことを記録しています。聖霊降臨の時は、特別なことが起こりました。突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえました。炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たち一人一人の上にとどまりました。すると、みんなが聖霊に満たされ、それぞれが違う言語で話し始めました。多くの国から神殿に来た信心深いユダヤ人は、ガリラヤの人々が自分が使っている言葉で話すことに驚きました。素晴らしい出来事でした。ところが、この素晴らしい出来事が指すのは、たった一つでした。神様の偉大な出来事、まさに救い主イエス様のことでした。

多くの人々は、聖霊によって起こった様々な現象に焦点を当てています。しかし、それは二次的なものだと思います。聖霊の降臨によって何が現れ、何が知らされたかが重要だと思います。イエス・キリスト、私たちの平和であるイエス様が各国の言葉によって知らされました。弟子たちに与えられた平和が、聖霊によって他の人に伝えられたのです。そして聖書は、その日にあらゆる国に住んでいる三千人のユダヤ人が洗礼を受けたと語っています。神様の言葉がエルサレムから離れ、世界中に広がるようになったのです。聖霊がこの世の人々をキリストの御前に導き始めたのです。そのために、イエス様は弟子たちに聖霊を受けなさいと言われたのであり、50日後、約束された聖霊がこの世に来られたのです。

新約聖書のコリントの信徒への手紙12章は、聖霊の賜物についての言葉です。ところが、聖霊の賜物についての言葉はこう始まります。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」コリントの信徒への手紙一12章3節の言葉です。私たちのところに来られた聖霊は、私たちの中でイエス様を示されます。それで、私たちがイエス様を主だと告白することができるようにし、この告白を通して平和を得るようにします。そして私たちを通して、この平和が伝えられます。聖霊降臨祭、私たちのところに来られた聖霊は、これを私たちと私たちの隣人とに必ず行われるのです。主の平和が皆様と共にありますように。皆様によって、天の平和が隣人に伝えられますように、主の御名によって祈ります。アーメン