神さまに招き入れられた者の豊かさ

ルカによる福音書24章44~53節

今日は、昇天主日です。
昇天とは、復活されたイエスさまが天に昇られることを言います。復活されたイエスさまは弟子たちに現れて出会ってくださり、四〇日後に昇天なさいます。イエスさまは、ご自分を送るためにベタニアにまで出てきた弟子たちに、「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」 と勧められました。この言葉に弟子たちの心は喜びに溢れています。

しかし、彼らにとって都は留まりたい場所ではありませんでした。イエスさまが濡れ衣をきせられ、十字架刑にされて殺され、自分たちまでいのちが狙われるなか、恐怖の中で家に閉じこもって、息を静めて隠れていた場所だったからです。その場所に、引き続き留まっていなさいとおっしゃるのです。しかも、今日は、イエスさまが自分たちから離れて天に昇られていなくなるのに、この言葉に彼らの心は喜びに溢れているのです。何が彼らをこれまで変えたのでしょうか。

以前の彼らは都会志向的な人たちでした。彼らは田舎のガリラヤの湖で漁をし、ガリラヤの収税所に虚しく座っていたときに、イエスさまに呼ばれ、イエスの弟子となるため従って行きました。しかし、彼らの心の中には出世欲でいっぱいでした。エルサレムと言うイスラエルの政治と経済の中心に向かって行かれるイエスについてゆくことによって、成功する、出世できると思ったのです。彼らにとってエルサレムは憧れの場所だったのです。

ですから、エルサレムに向かう間、イエスさまはとても大切なことを話されましたが、彼らはちゃんと聞くことができませんでした。つまり、イエスさまは、エルサレムに上られる間三回も言われた言葉があります。「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(マタイ20:18~19)と。しかし、出世欲でいっぱいだった彼らの心にこの言葉は何の響きも与えられず、左の耳から聞いて右の耳から流すような感じでした。

その弟子たちが変わったのです。

今日も、以前イエスさまが話されたことが述べられています。
「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。…メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」と。この言葉が今は信じられたのです。どうして? 彼らの心の目が開かれたから!「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」と書かれているように、彼らはイエスさまによってみ言葉を悟るための心の目が開かれたのでした。

だったら、最初から心の目を開いてくださればよかったのに!と、わたしたちはそう思うかもしれません。もしかしたら、こういう願い方をしてわたしたちは神さまの前にいるのではないでしょうか。どこかで、超能力な力が働いて、ある瞬間ぱっと悟るようなことが起きればいいと。こつこつとやるべきことは怠っていながら、神さまが働いてくださることを願うのです。しかし、それは、以前、弟子たちがエレサムに登る動機がそうであったように、都会志向的、成功主義的な信仰の歩み方にほかならない。

イエスさまが捕まえる前の晩、ゲッセマネの園で祈られた際、三人の弟子が一緒にその場にいました。一緒に祈って欲しかったから、イエスさまは彼らを連れて行ったのです。しかし、同じ場にいるのに、イエスさまは汗を流しながらお祈りをし、弟子たちは眠っていました。

イエスさまも祈らなければ、神さまから示された道を真っ直ぐに歩むことが難しかった。だから、このときも、ご自分の時が近づいてきたのを悟るなか、一緒に祈るための仲間を必要とされたのです。

このときだけでなく、イエスさまは、いつも、朝の早い時間に人里はなれたところで祈られました。祈りを通して与えられた力によって病んでいる人を訪ね、渇いている人に神の国の豊かさを解き、人々の必要を満たしておられたのです。神さまと二人きりの時を通して、ご自分の疲れを癒し、渇きを満たされるための、上からの力を必要とされていました。
ゲッセマネの園での祈りは、一人の祈りだけでは担うことのたいへんなことがあったから仲間が必要だったのでしょう。しかし、一緒に行った人たちは眠っていたのです。

わたしたちは、できることなら祈りたくない、祈るという過程はパスして、自分の求めに神さまが目を留めてくださることを願っていたりはしないだろうか。または、人の必要に鈍感で、自分の目的さえ適えられることを願っていたりはしないだろうか。この世の価値観、この世の物質にあこがれながら、神がそのための道を助けてくださるようにと願うような信仰の歩み方をしているのです。都会志向的な、成功主義的な信仰の形です。

弟子たちはそうであった自分の姿を知らされたのでした。だから、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい!」「あなたがたはエルサレムからはじめてわたしの証人となるから」と勧められたイエスの言葉が嬉しくて仕方ないのです。その彼らにとって、もはや都は、この世での出世の場所ではなくなりました。エルサレムという都は、成功するための憧れの場ではなく、祈りの場になりました。傷つき、絶望し、疑い、不信感で満ちていた場が、神の国をもたらす祈りの場になり、新たな出発の場になったのです。恐れていた人たちのために、自分たちのいのちを捧げられる奉仕の場に変えられたのです。

わたしたちにもできることなら避けて通りたい都がありましょう。大切な者を奪われて深い悲しみが与えられたところ。信じていたものに裏切られて絶望していたところ。いのちを危うくされて不安や恐れを抱かされ、自分のありのままの姿を小さくさせられたところが、わたしたちにおあります。今日、昇天なさるイエスさまは、そこで、祈りなさい、そここそ新しい出発の源であるとおっしゃっておられます。そこからあなたがたはわたしの証人となって、世界の隅々にまでみ言葉を述べ伝えるのだと、そのために、上からの力に満たされるまでは、そこに留まりなさい、と。