試練の中にこそ神の恵みが

四旬節第3主日    2019年3月24日

出3:1~15、1コリント10:1~13、ルカによる福音書13:1~9

試練の中にこそ神の恵みが

野球選手のイチローが引退宣言をしました。引退会見で述べた言葉が人々の関心を寄せています。「10年200本続けてきたこと、オールスターズでMVPを取ったことなどは小さなことに過ぎない。それを最後まで成し遂げられなければ、この日はなかった。記録はいずれ誰かに抜かれる。しかし、あの日々は、ひょっとしたら誰にもできないことかもしれない。」「それを」とか「あの日々」とかの意味は、誰よりも朝早く起きて体を鍛えるため訓練を欠かさなかった日々、人が気づかないところで練習を積み重ねたこと、当たり前のことを毎日やり続けたこと。これは確かに誰にでもできないことかもしれません。

自分があげた功績ではなく、過ごした日々を誇りに思える人。謙虚で真実な人の生き方であり、四旬節を過ごすわたしたちに求められている姿ではないかと思いました。

パウロは、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリ10:12)と述べ、続けて「あなた方を襲った試練で、人として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」(13節)と述べています。

試練に遭わない人はいない。しかし、試練のただ中から神が備えておられる逃れの道を見つけられない人は多いです。人は試練の中に置かれれば、不安と恐れによって神の備えを見つける心の目がふさがってしまうからです。そんなとき、人は、その試練が、悪い行いの結果のように受け止め、自分や家族を裁き、神をも呪って闇の力に自分をゆだねてしまいます。

イスラエルの民がエジプトの奴隷になって苦しみの叫びをあげたとき、神さまは、彼らを救うためにモーセを送る準備をしながらこう述べます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプトの手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地に…彼らを導き上る」(出3:7~8)。愛する者の救いのために忙しい神さまの姿。

エジプトという国は、信仰的には、洗礼を受ける前のところではなく、洗礼を受けても今なお自分の中に閉じこもっているところ。この世で苦労して獲得した我功績を数え上げては人と比較し、自慢話で魂を満たそうとする自分の世界。そこでは、実るべき木からの実りは生まれてこないでしょう。闇の世界です。そのただ中に神さまが自ら降ってきて、救い出すと言われるのです。それまた試練の時です。自分のものと神さまのものとの戦いが始まるからです。

信仰生活とは、自分との闘いの日々と言えましょう。聖書を読みたくない自分と読むべき自分、祈りたくない自分と祈るべき自分、赦したくない自分と赦すべき自分との闘い…成果ではなく日々の努力のあとは、「僕はするべきことをしただけです」と告白できる世界。それでも、わたしたちは、行いではなく恵みによって救われるという言葉に委ねたいと思うかもしれません。神さまは、そのわたしを他者(モーセ)の姿をして見ておられ、降って来て、救い出すために忙しく働かれることでしょう。日々の歩みの中で、試練と思えるときに神が来られる道を見つめられる人は幸いです。

(2019年3月24日説教要約)