死んでも生きる

2020年3月29日(日) 四旬節第5主日
エゼキエル37:1~14 詩編130 ロマ8:6~11 ヨハネ11:1~45

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 本日の聖書の箇所はベタニアの出身である病気のラザロとその姉妹マリアとマルタのお話しです。ベタニアはエルサレムに近く15スタディオンほどのところにあり、およそ3キロほど離れた所と考えられます。ベタニアは「イチジクの家」と訳されますが、嘆き悲しみを通して神の国に入るという意味があるそうです。
 生きていること、死んでいることとは何でしょう。命とは何でありましょう。自分ではその時を知ることなく、生が与えられるのです。胎内から出た時、肺の呼吸に変わります。医者と母親はだいたいの時は予想できるでしょうが、本当のところは分からないのです。現在の生死は心臓の動きや肺の働きにより判断しますが。イエスさまが言われる、生きているか、死んでいるかは、イエスさまとの関係において、繋がりがあるか、ないかにかかっているのではないかと思います。
 マリアとその姉妹マルタはイエスのもとに人をやって「あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせました。イエスさまは答えます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」この病気は死でおわらないと言われたのです。死で終わる病気もあるが、このラザロの病気は死で終わらないとあります。死で終わらないには理由があります。その目的は、すべては神さまのご栄光のためであるとあります。ラザロが病気と聞いても、イエス様は早く行こうとしませんでした。イエスさまの愛されたラザロが重症だと言うのに行こうとはしませんでした。
 イエスさま言われます。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」そしてさらにイエスさまは真実にせまります。はっきりと言います。「ラザロは死んだのだ。」イエスは意図的にラザロのところへ行かなかったことが分かります。それはあなたがたにとってよかった。あなた方が信じるようになるためである。さあ行こうと言われています。
 イエスさまは、マルタ、マリアが泣き、一緒にいたユダヤ人も泣いているのを見て、心に憤りを覚えました。死に対して憤られたのでしょう。また、周りにいたユダヤ人たちが嘆きかなしんでいるのを見て、あわれに思われたのでしょう。墓の石を取り、「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さったことを感謝します。わたしをお遣わしになったことを彼らに信じさせるためです。」イエスさまは墓の前で大声で叫ばれました。「ラザロ、出て来なさい」布で包まれたままのラザロが生き返りました。死んでから4日もたったラザロが墓から出て来たのです。
 イエスさまは今、わたし達に聞かれています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と