2020年4月19日㈰
ヨハネ福音書20章19節~31節
少し前に、ある高校の先生の話しが書いてある本を読みました。その先生は、その高校の卒業生で、先生になって戻ってきたそうです。
学生時代は不登校気味で、かなり悪いこともして、自分なんて人間のクズで、いてもいなくてもどうだっていい存在なんだと思っていたそうです。
ある日、学校の掃除をさぼって帰っていたら、先生がずっとついててきて「戻って掃除をしよう。逃げないで。逃げてばかりじゃ、一生がダメになる」といってきたそうです。それでも、その言葉を無視し続けて家まで帰ったのですが先生はあきらめずに、家までついてきて、さらには家の中にまで入って来て「戻って掃除をしよう」と言ってきたそうです。ついに根負けして、先生と一緒に学校に戻って掃除をした時に、先生から「ありがとう」と言われたそうです。なんで「ありがとう」なのかよく分からなかったけど、この先生がトコトン向き合ってくれた、本気で向き合ってくれたおかげで彼は変わったそうです。
そして大学に進学して卒業した年に、バイクで大事故を起こし生死の境をさまよい、もうだめかもしれない、と絶望していた時に、あの時の先生が病院にきてくれて、涙を流しながら「死んじゃだめだ。君は私の夢なんだから」と言われたそうなんです。高校を卒業して4年以上たっているのに先生は、彼が事故を起こしたことを耳にして病院に駆けつけてくれて、涙を流しながら精一杯の思いを込めて言葉をかけた。
彼は、先生からかけられた言葉、その言葉に込められた深い愛情によって「俺のすべてはゆるされ、俺は受け入れられている」と思ったそうです。そして先生の言葉を糧に俺は一生、生きていける、と思ったそうです。そして、回復した彼は、先生となって母校に戻ったという話です。
復活のイエス・キリストは、扉に鍵がかかった家の中に入っていき、弟子たちの真ん中に立ち、言葉をかけ、手とわき腹のキズを見せ、本気になって向き合い、神の愛とゆるしを示し、彼らを慰め、励まし、力づけ、勇気づけ、再び立ち上がるものとしてくださいました。
「あなたがたに平和があるように」「あなたがたに平和があるように」「あなたがたに平和があるように」と、復活された主イエス・キリストは三度同じ言葉を弟子たちに向かって語られたと聖書は言います。
僕だったら、自分を見捨てて逃げ、見殺しにした人間とは会いたくもないし、顔もみたくない、「平和があるように」なんて言葉を口にすることも、関わり合うこともしたくないと思う。しかし、イエスさまは自分を見捨てて逃げた弟子たちに向かって何度も言うんです「あなたがたに平和があるように」と。この主イエスの言葉は弟子たちの心に刺さったに違いない。そして忘れられない言葉としていつまでも心に響いていたに違いない。だから聖書に、復活したイエスさまが弟子たちの前に現れて三度も「あなたがたに平和があるように」と語られたのだ、ということがしっかりと記されてあるのでしょう。
弟子たちは、イエスさまの「あなたがたに平和があるように」と言う言葉を聞いて、自分のすべてはゆるされ、自分のすべては受け入れられていると感じたのではないでしょうか。そして弟子たちは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通してあらわされた、神さまの限りない無償の完全な愛を知り、信じる者となり、神の限りない愛を人々に届け、伝え、知らせていったのです。
あの日、復活されたイエスさまが弟子たちの前に現れ、深い憐れみと、愛と、ゆるしをもって弟子たちに語られたみことばが、今日、今、この時、この礼拝に与る私たちに向けて語られるのです、「あなたがたに平和があるように」と。
私たち一人ひとりに向けられている神さまの熱い思いと、一方的で、徹底的で、圧倒的な愛は、弟子のトマスに向き合うイエス・キリストの姿によってはっきりと表わされています。
主イエス・キリストは、疑う弟子のトマスに対して徹底的に、トコトン向き合う姿を通して、一人として置き去りにしないし、放っておかないし、独りぼっちにはしないということを示すのです。
イエスさまはトマスに向かっていいます、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れないさい(27節)」と。イエスさまは、トマスと向き合い、トマスに語り、「わたしとあなた」という、確かな関係、固い結びつき、絶対の絆を示し、彼のすべてを受け止めるのです。
あの高校の先生が、生と死の境を経験し、もうだめかもしれないという人生最大のピンチの時にかけられた言葉によって、その後の人生が大きく転換したように、復活の主イエス・キリストが、トマスにかけた言葉、そこに込められた深い憐れみと、限りない無償の愛がトマスの心にいつまでも希望の光を灯すものとなった。そしてトマスは、「信じない者ではなく、信じる者(27節)」となり、弟子たちと共に恐れも、人生最大のピンチも乗り越えて、「わたしの主、わたしの神(28節)」である主イエス・キリストを大胆に証ししていく者となったのです。
聖書は言います「完全な愛は恐れを締め出す(Ⅰヨハネ4:18)」、「死も命も――どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない(ローマ8:38~)」と。
イエス・キリストによって結び合わされた神さまと私たちの関係、絆は永遠です。いつでも私たちに向けられている神さまの限りない完全な愛は、誰にも、何ものにも、ウイルスであろうとも、死であろうとも妨げるもことも、遮ることも、消し去ることも、奪い去ることもできない。
今、復活の主イエス・キリストは、家にとどまらざるをえない状況に置かれ、先の見えない恐れや不安に苛まれている私たちを深く憐れみ、私たちのただ中に立ち、私たちに向けて語ります「あなたがたに平和があるように」と。主イエスは重ねて言います「あなたに平安があるように」。あなたのことを大切に思い、愛する主イエスは再び言います「あなたがたに平安があるように」。
私たちはいつでも、私たちに向けられている神さまの限りない完全な愛と、ゆるしと、平安を思い起こし、思い巡らし、イエス・キリストの名によって受けることのできる永遠のいのち(31節)の約束を信じて、すべてを委ねて、与えられた今日という一日を大切に、与えられた人との繋がりを大切に、与えられたキリストとの交わりを大切に、感謝して生きていきましょう。
最期にもう一度、あなたに心を込めて伝えます「あなたがたに平和があるように」。