聖霊降臨後第3主日 マタイによる福音書10:24~39
今日の福音書でイエスさまは、ご自分はこの世に平和ではなく、剣をもたらすために来たと言われます。今日の福音書34〜36節の御言葉です。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」
信徒である私たちが聞いても、受け入れにくい言葉ですね。
このような言葉が聖書に書かれているということは、信じられない気がします。このような言葉はまだ神さまを信じていない人にとっては、耳に逆らう言葉になるでしょう。このような言葉を、私たちがどのように理解し、受け入れることができるでしょうか。平和ではなく、剣をもたらすために来られたイエスさまの意図は何でしょうか。この言葉が果たして福音になることができるのでしょうか。この言葉を理解するために、私たちが次の2つのことを念頭に置かなければならないと思います。イエスさまがこの話をなさったご意図は何かということと、この言葉を最初に聞いた人々の状況はどうだったかということです。
先週の福音書で、イエスさまは十二弟子に権能を授け、イスラエルの民にお遣わしになりました。弟子たちを遣わした理由は、民をあわれんでくださったからです。民は曲解された律法に縛られて生きていました。さらに残念なのは、当時の宗教指導者たちがこれを正しいことだと思っていたということです。このような状況に置かれた民を憐れんでくださったイエスさまは、彼らに正しい神さまの律法を教え、ありとあらゆる病気と悪霊に取りつかれた人を癒されました。しかし、このようなイエスさまの歩みは、宗教指導者たちの反発を買いました。なぜなら、イエスさまの教えは、彼らの律法とは違っていました。それによってイエスさまの言葉は、自分自身が権威があると思っている宗教指導者の耳に逆らったと思います。だから彼らは、イエスさまを律法の伝統に反する人だと言い、イエスさまの奇跡を貶めました。
「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している(マタイ9:34)。」
これが当時の宗教指導者たちのイエスさまに対する考えでした。イエスさまはこのような状況に置かれていました。それで、イエスさまは、今日の福音書24〜25節で、このように言われます。
「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」
イエスさまはいくつかの宗教指導者たちによって、ご自分がベルゼブル、すなわち、悪霊の頭だと呼ばれているということを知っておられました。そしてそれによって、ご自分に従っている弟子たちも悪霊又は悪霊に従う者だと呼ばれていることを知っておられたでしょう。これはすべて、曲解されたものであり、事実ではありません。このようなことは、弟子たちにも良くない影響を与えたのでしょう。イエスさまに従うということで、人々に後ろ指を指されることがあり、評判が悪くなることもあります。家族や友達に信仰を引き止められることもあります。そうなれば、弟子たちでさえも、信仰が揺れるでしょう。そして、このようなことは、当時の弟子たちだけでなく、マタイによる福音書の元の読者にも起こりました。イエスさまに従うという理由によって迫害を受けたり、信仰をもつことを引き止められたりしました。さらに、イエスさまと共にいることでもなかったので、信仰を守ることは、もっと大変なことになりました。だからイエスさまは、弟子たちにこのようなことが起こることを恐れるなと言われました。そして、このように言われました。
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである(26節)。」
続いて、イエスさまはこのように言われます。
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい(28節)。」
この言葉は、神さまを恐れなさいという言葉ではないでしょう。私たちが恐れるべき方は、神さましかいない。だから、人を恐れてはならないということです。そして、イエスさまを選択したら、信仰の中で安心しなさいということです。神さまが許さなければ、すずめ一羽さえ地に落ちることはないからです。だからたくさんのスズメよりも大事な弟子たちは、主の中で守られるのです。そして、私たちの信仰は、終わりの日、神さまの御前で示されるのです。イエスさまが私たちを仲間だと認めてくださるのです。
過去から現在に至るまで、イエスさまに従うことには、多くのことが起きています。
迫害と誤解を受けた時期もあったし、黄金期を享受した時期もありました。現在も国や文化によって様々なことが起こっていますが、多くの国で人権や宗教の自由などの思想が発達して、過去よりは安全に信仰生活を守ることができるようになりました。しかし、このような状況の中でも、変わらないことが一つあります。それは、イエスさまの言葉が与えるチャレンジです。イエスさまは人々に、神の民となる新たな道を提示して立てるために、この世に来られました。このことは、イエスさまの言葉を受け入れる人には嬉しいことですが、まだ、自分たちの伝統や考えを固守している人にとっては、気になることです。だからこのことは、分裂をもたらすでしょう。分裂が目的ではありませんが、過去のことを固守する人と、新しい道に従う人の間では、自然に分裂が起こるでしょう。そして、この事には、家族も例外にならないと思います。それでイエス様は、ご自分がこの世に剣をもたらすために来たと言われたのかもしれません。
この言葉は、イエスさまが旧約聖書のミカ書7章に書かれている言葉を引用したものです。
預言者ミカは、神さまに従っていない権力者と民の過ちを告発します。そして、彼らの家族が分裂することになり、その分裂によってイスラエルは、回復と救いを受けることができると預言します。つまり、神さまがイスラエルに分裂を与えられた目的は、救うためだったのです。これは、イエスさまも同じだと思います。イエスさまが家族の分裂を言われたのは、自分に従っている人とそうでない人を分けるためではありません。過去イスラエルが分裂によって、回復と救いを受けたように、イエスさまの時代のイスラエルのも、分裂によって救われるのです。福音書を読めば、ユダヤ人が異邦人との接触を避けて、サマリア人を無視したということを知ることができます。その理由は、血統からですが、ユダヤ人が血統を大切に思ったのは、血統によって救いを受けられると信じていたからです。だから、ユダヤ人の家族共同体は堅くて、分裂がなければ、その中に福音が入ることができませんでした。
イエスさまが剣をもたらすために来たという言葉は、家族間の分裂を願われているという言葉ではありません。家族の中に福音を入れられるために、そして、その福音によって救いが行われるために、イエスさまは平和ではなく、剣をもたらすために来られたのです。今、私たちの時代は、安全に信仰生活をすることができます。そため、イエスさまのこの言葉が、私たちにより鋭く聞こえ、さらには、耳に逆らうこともあると思います。しかし、このイエスさまの言葉は、私たちのための御言葉であり、救いを施すための一歩だと思います。覆われているもので、現わされないものはないように、真理は覆われません。真理がみんなに宣べ伝えられる日が来ますように。イエスさまの福音が、私たちみんなの家庭に臨みますように、主の御名によって祈ります。アーメン。