聖霊降臨後第四主日 マタイによる福音書10:40~42
僕は、牧師になって今年で6年目を迎えましたが、過去いくつもの仕事を転々としてきたことを思うと、「よく続いてるな」と思う時があります。ただ、いつでも思うことは、神さまは僕みたいな取るに足りない小さな者を受け入れ、選び、福音宣教の働きに用いてくださっているということ、「すべては神さまの計画なんだから大丈夫だ」、ということです。そして、こうして牧師として立たせたのは神さまなのだから、これからの牧師としての歩みが穏やかではない嵐のような時も、もうだめかもしれないと思うような時でも、神さまは必ず支え、助け、導いてくださることを信じて、すべてをゆだねることができるということです。
みなさんの人生でも同じことが言えのではないでしょうか。神さまによっていのちが与えられ、今の今まで支えられ、助けられ、導かれ、生かされてきた。だから、これからも神さまは私たちに歩むべき道を指し示し、必ず支え、守り、導いてくださるということを信じて、すべてをゆだねて生きることができる。
そして私たちには、神さまのみ心によって、イエス・キリストの名のもとに結び合うことのできた教会の仲間がいる、家族がいるというこの事実は、いつでも私たちの心に生きる勇気と力とを与えてくれることでしょう。そして、これからもこの繋がりの中で私たちが生かされるのであれば、決して独りぼっちになることはありません。私のために、あなたのために、祈りを合わせてくれる人がいるし、祈り続けてくれている人がいる、それが神さまの愛を知り、キリストの名によって繋がり合うキリスト教会の姿でしょう。だから私たちは安心してこれからも教会の仲間との繋がりの中で、神さまを信じて、すべてをゆだねて生きていけばいい。
イエスさまによってありのままで、あるがままで受け入れられ、選ばれた弟子たちは、イエス・キリストを中心として受け止め合う、受け入れ合う関わり、交わり、繋がりがあることがとても嬉しかったのではないかと思います。
弟子たちは、これまでのユダヤの社会や会堂、家族という繋がり、関わり、交わり意外に、イエスさまを通して表された神さまの愛を中心とした、交わり、関わり、結びつきの和のなかに、自分がいること、自分が受け入れられていることに大きな喜びを見出していたのではないでしょうか。
聖書をみればイエスさまに受け入れられた人々は、病の人や体の不自由な人、娼婦や罪人と言われる社会の周縁に追いやられてしまう弱い立場の人間が多かったようです。だけど、イエスさまは彼らをあるがままで受け止め、神さまの無償の愛を全身全霊で伝えました。弟子たちは、神さまが自分たちのことを価値あるもの、貴いもの、大切なもの、愛するものとして受け止め、いつもみ心に留め、心遣い、心配り、心砕いていてくださることを知ることで、生きる力と、勇気と、希望とが心に湧いてきたことと思います。
私たちも、あるがままで、ありのままで神さまに受け止められ、受け入れられ、愛されている一人ひとりです。神さまは、いつでもあなたのことを思い、あなたのことに心砕き、あなたを見つめ、あなたを愛している。今も、こうしてあなたの心に語りかけ、働きかけ、これからもあなたと共にいて、あなたの人生を支え、励まし、力づけ、勇気づけてくださるでしょう。
イエスさまは、愛する弟子たちを福音宣教の働きに遣わされる前にこう言って勇気づけます、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである(40節)」と。
イエスさまは弟子たちに、わたしたちは一体であるということ、わたしたちは神さまとの固く、強く、確かな結びつきの中にあるから決して一人ではないんだ、ということを伝えるのです。この言葉は宣教者にとって、否、宣教者に限らず私たちすべてのものにとって大きな安心と勇気とを与えてくれるものでしょう。
人生は、いいときもあれば、悪いときもある、満たされるようなときも、空しくてたまらないときも、涙のときも、笑顔のときもあるでしょう。そのすべてを私たちにいのちを与え、み子イエス・キリストのいのちをも与えてくださった神さまは引き受け、受け止め、どのような状況にあっても見捨てることも、見放すことも、見限ることなく、最後まで共にいて支え導いてくださる。この神さまが共にいてくださるという私たちの確信、信頼、信仰が、私たちの心と、足取りとを重いものではなく、軽やかなものとしてくれるでしょう。
イエスさまは弟子たちにこう宣言されました、「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける(42節)」と。
神さまの目には、どんなに小さな者でもかけがえのないものとして映っているし、どんな小さくて、些細で、わずかなことでも、神さまはみ心に留め、しっかりと受け止めくださる。小さな働きでも構わない、小さな思いやりでも、小さな心配りでも構わない。神さまはその人の思いを心に留め、決して忘れない。どんなに小さなものであろうともキリストの名の下にできた繋がり、関わり、交わりを神さまが忘れるわけがない。そして、神さまは必ず報いてくださるとイエスさまは宣言し、約束されるのです。
その報いとは、使徒パウロが言っているように「主イエス・キリストによる永遠のいのち(ローマ6:23)」の約束です。私たちは、イエスさまが宣言し、約束された神さまからの報いが必ずあることを信じて、感謝して、すすんで永遠のいのちに与ればいい、受け取ればいい、いただけばいいんです。
考えてみれば、水だって神さまが私たちのいのちのために備え、与えてくださっているものでしょう。神さまは私たちの救いのため、いのちのために、み子イエス・キリストのいのちを差し出してくださいました。そして、永遠のいのちの約束も私たちのために与えてくださるのです。なにもかも、すべては愛するこの世界と私たちのために、愛するあなたのためになのです。
私たちは、必ず報いがあると約束された主イエス・キリストの言葉を信じて、受け止めて、神さまの限りない無条件の愛と、永遠のいのちの約束を思いながら、与えられた人との交わりと、神さまとの繋がりとを大切にしながら生きる者でありたいです。
そして、小さくても、些細でも、わずかでも神さまの愛に応えて生きる、神さまの福音宣教の働きに仕えて生きる者でありたいです。