聖霊降臨後第15主日 マタイによる福音書18:21-35
みなさん、子育てって大変ですよね。僕には息子が二人いるのですが、家じゅう走り回って大暴れして、「ダメだよ」って言うことを何度もして、床や壁にペンで絵を書いたり、ドラえもんのシールを張ったりして大変です。イライラとムカムカのレベルが最高潮に達したとき、子どもたちに向かって大きな声を張り上げてしまうときがあります。でも結局最後には抱きしめているんですよね。
「親心子知らず」なんて言葉がありますが、自分に子どもができて親になってみて、親の気持ちが少しずつ分かってきたような気がします。子育てをしながら、自分もいろいろと親には迷惑をかけたし、大変な思いをさせてきたんだよな、ということをしみじみと思う時があります。いろんなことがあったけれど、それでも、親は自分のことを見捨てることなく支えてくれて、祈ってくれていたし、今も祈ってくれている。
時々「牧師になって大変じゃないですか」と聞かれるときがあります。そんなとき僕は、「おかげさまで、こんな欠けだらけの牧師ですけど、教会の皆さんが支えてくれて、祈ってくれて元気にやっています」と答えます。
家族にも、学校の先生にも、社会人のときも、そして教会でも、みんなから支えられて、大目に見てもらうことも、目をつむってもらうことなんかもあったりして、守られ、助けられ、祈られて今を生きている自分がいるわけです。本当にみなさんのおかげで、今の僕がある。
私たちの生活のすべて、家庭生活、学校生活、職場生活、教会生活、すべてにおかげさまがあるわけです。誰かの支えがあり、誰かの助けがあり、誰かのゆるしがあり、誰かの祈りがあって今の私たちがいる。神さまの深い憐れみと限りない無償の愛と、ゆるしとがあって今の私たちがいる。そのことを忘れずに、他人のことを思いやり、他人のために祈り、他人を愛し、他人をゆるすことのできるものでありたいと思うのです。
今日の福音書でイエスさまは言います「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」と。「あなたに言っておく」と言われるイエスさまの言葉をほかの誰でもない、今、このときにキリストが私に向かって「あなたに言っておく」と語られている言葉なのだとしてまっすぐに、真剣に受け止めたい。
「七の七十倍までも赦しなさい」とは「490回まではゆるしなさい」と言っているのではなく、「限りなくゆるしなさい」ということです。そして「七の七十倍までも赦しなさい」というこの言葉に含まれているもう一つの意味合いは「あなたは限りなくゆるされているのだから」ということです。「ゆるす」ということの背後には、「ゆるされている」という事実があることに気づきなさい、とイエスさまは仰るんです。相手のことを憎んだり、怒ったりしている自分は限りなくゆるされている存在なんだということを知らないと、気づかないと、相手をゆるすということができない。
イエスさまは、「七の七十倍までも赦しなさい」と言われた後に、莫大な負債をゆるされていながら、わずかな貸をゆるさない者のたとえ話をして私たちに教えます。王様によって帳消しにしてもらった莫大な負債額はなんと1万タラントン。これは当時の労働者の十数万年分の賃金だと言われています。十数万年分の賃金ですから途方もない、莫大な負債が帳消しにされたわけです。そのような莫大な金額を聞いて驚かない人はいないでしょうし、その負債を帳消しにされたと聞いて感動しない人はいないでしょう。
1万タラントンの帳消しの話からイエスさまが私たちに強調して伝えたいこと、言いたいことは明らかです。つまり、神さまは私たち一人ひとりに限りない無償の愛と、恵みと、ゆるしとを与えているのだ、ということです。
今日というかけがえのない一日を与え、かけがえのない人々との出会いを与え、生きるに必要なすべてを与え、御子イエス・キリストを与え、これらすべてを恵みとして無償で与えてくださっている。
この神さまからの恵みに、感謝と、愛と、ゆるしをもって応えるのではなく、他人の些細な貸や、過失に対して文句を言ったり、怒ったり、いつまでも重箱の隅をつつくかのように責めてしまったりする私たち人間の姿がある。
実際の生活の中での自分自身をしっかりと見つめなおしてみると、ゆるされていることがどれほど多いことでしょうか。仕事場でも、学校でも、人間関係でも、家族の中のことでも、生活のありとあらゆる場面でゆるされないと成り立たないということが多いです。自分の欠けや、破れ、足りないところ、未熟なところを、誰かに補ってもらい、助けてもらい、支えてもらい、ゆるしてもらっているからこそすべてが成り立っている。
自分のいのち、自分の成り立ち、自分の人生の歩みを見つめ、深く掘り下げていった先には、やはり私にいのちを与え、すべての出会いを与え、イエス・キリストを与えてくださったすべての源である神さまの存在にたどり着くのです。
今、私たちがこうして在れるのは、神さまの限りない愛と、恵みと、ゆるしとがあったからだということを思いめぐらせるとき、感謝の思いが湧き上がると同時に、神さまの愛と、ゆるしとに応えて生きるものでありたいと思う。
ゆるすことのできない、怒りや、憎しみの感情は、時に生きるエネルギーになる、何かを成し遂げる力になる、ということもあるかもしれないけれど、かけがえのない今日という一日を笑顔で生きることはできないでしょう。
与えられた一度きりの人生の多くを、怒りや、憎しみの思いの中で生きるのではなく、愛と、ゆるしの、キリストの平安の中で、感謝と、喜びと、笑顔で生きる。このことが私たちのことを絶えずみ心に留め、限りなく愛し、救いのためにご自身のすべてを差し出し、十字架にかかられたイエス・キリストの思い、キリストの愛に応える、親孝行ならぬ、キリスト孝行だと思う。
私たちはいつでもイエス・キリストの十字架によってあらわされた神さまの限りない愛と、恵みと、ゆるしとを思い起こしながら、他人の落ち度や、過ちに寛容さをもって、ゆるすことのできるものでありたい。与えられた今日という一日を大切に、与えられた出会いを大切に、与えられた一度きりの人生と、このいのちを大切に、感謝と、喜びと、笑顔で生きるものでありたい。これからも、キリストの愛と、ゆるしの中で生かされていきましょう。