私たちはみんな主の証人

顕現後第2主日 ヨハネによる福音書1:43~51

 今日の福音書はヨハネによる福音書です。
 ヨハネによる福音書は、共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカによる福音書とは違う観点から書かれた福音書です。この福音書には、共観福音書には記録されていないイエスさまの公的な生涯の部分が多く書かれています。そして、この福音書をていねいに読んでみると、エルサレムの中心のユダヤ人だけでなく異邦の地域に住んでいたユダヤ人と異邦人のために書いた福音書だということが分かります。それでヨハネによる福音書には、イエスさまと異邦人との出会い、ユダヤ人の議員たちとの出会い、王の役人との出会いなどが書かれています。これだけではなく、イエスさまに対して、ヘブライ的な観点とギリシャの哲学的な観点、この二つの観点を通して説明してくれます。このような説明があるため、現代に生きている私たちも、容易にイエスさまがどなたかが分かると思います。

 ヨハネによる福音書は、共観福音書に書かれていないいろいろな思想と出来事を記録していますが、語りたいことは共観福音書と同じです。それは、イエスさまはメシアだということを証言することです。そして今日の福音書は、その証言をする人が誰なのかを紹介しています。旧約のイザヤ書を見ると、神さまはご自分を否定していたこの世と対立なさいます。そして預言者イザヤを通して、ご自分の御心をこの世に示してくださいます。このとき、イスラエルの民は、神さまの証人として紹介されます。今日の福音書が属しているヨハネによる福音書1章も、イザヤ書と同じ仕組みで書かれています。光と暗闇が対立すること、洗礼者のヨハネを通して神さまの御心がこの世に示されること、イエスさまの弟子たちが証人として紹介されること。この中で最後の証人の話が今日の福音書です。

 今日の福音書には、いくつかの地名、又は地名と関連していることが書かれています。
 このような短い箇所でいろいろな地名が登場するのは、福音書の中では珍しいことです。そのため、ヨハネによる福音書の著者は、ある程度の意図を持っていろいろな地名に言及した可能性が高いと思います。著者の意図を調べてみるためには、まず、今日の福音書でどんな地名が言及されているかを調べてみることが大事だと思います。今日の福音書でイエスさまがいらっしゃるところは、エルサレムです。43節によると、イエスさまはエルサレムからガリラヤという場所に行こうとしたとき、フィリポという人と出会われます。そして彼にご自分に従いなさいうと言われます。44節では、フィリポについての紹介が出ますが、フィリポはアンデレとペトロの町、ベトサイダ出身と書かれています。そのフィリポは、ナタナエルのところに行って、こう言います。45節の言葉です。
 「フィリポはナタナエルに出会って言った。『わたしたちは、モ―セが律法に 記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

 ヨハネによる福音書でイエスさまの出身地であるナザレは、三つの箇所に登場します。
 一つの箇所は、今日の福音書であり、他の二つの箇所は、イエスさまが逮捕されたときと、十字架の上にかかったイエスさまの罪状書きに地名が書かれていました。この記述には共通点が一つありますが、それは、人間イエスさまのアイデンティティを表すときに、この地名が使われたということです。そしてヨハネによる福音書21章2節によると、ナタナエルは、ガリラヤのカナの人と書かれています。ヨハネによる福音書でイエスさまの最初のしるしが起こった場所はどこですか。ガリラヤのカナの婚礼です。最後は、今日の福音書51節は、イエスさまがナタナエルに天が開けることを見ることになるという話をしてくださる場面です。ここでイエスさまは、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを見ることになる」と言われます。ところが、この言葉は、イエスさまが創世記28章でのヤコブの夢の内容を引用なさったものです。そしてヤコブがこの夢を見た場所は、ベテルという場所でした。

 まとめてみましょう。
 今日の福音書に登場した地名や地名に関連していた出来事は、全部で六つの箇所です。エルサレム、ガリラヤ、ベトサイダ、ナザレ、カナ、ベテルです。このうちにベトサイダ、ナザレ、カナは、すべてガリラヤの地域に属している場所なので、大きくは、エルサレムとガリラヤとベテルに、この3つのところが言及されたと言えます。この地域は、みんな特色がある場所です。エルサレムは、ユダヤ人の神殿がある場所です。ガリラヤは、ユダヤ人と異邦人が共に住んでいる場所、当時のイスラエルの地の果て、異邦の地域との国境の地域です。ベテルは、過去イスラエルが政治的な問題によって南北が分かれたとき、北イスラエルの神殿があった場所です。そして、イエスさまの時代には、サマリアと呼ばれ、ユダヤ人に差別された場所です。しかし、ヨハネによる福音書は、イエスさまがご自分の証人たち、つまり、弟子たちを招かれる場面でこの地名に言及することによって、読者たちにユダヤ人だけではなく、サマリア人、異邦人も思い出させたのです。

 イエスさまは誰のメシアでしょうか。
 イエスさまがユダヤ人として生まれ、律法を守り、ユダヤ地域で活動なさったから、ユダヤ人だけのメシアでしょうか。それとも、少なくともユダヤ人には特権があるのでしょうか。そうではないでしょう。だからヨハネによる福音書の著者は、イエスさまが証人になる弟子たちを招かれる場面で、当時のすべての地域として通用された場所を記録しておいたのだと思います。イエスさまは、特定の民族のメシアではなく、みんなのメシアであることを示すためです。また、著者は、イエスさまや弟子たちの出身地も記録しています。彼らもユダヤの中心地であるエルサレム出身ではないということを示すのです。当時、初代教会では、ユダヤ人たち、その中でも、エルサレムの教会の人々は、特別な優遇を受けました。さらには、福音を伝えたエルサレムの先生たちは、異邦の教会で特別な優遇を要求することもありました。彼らがイエスさまと弟子たちと同じユダヤ人だったからです。しかし、このようなことは、過去のユダヤ人にとっては大事なことかもしれませんが、イエスさまを信じる人々には、大事なものではありません。なぜなら、イエスさまの救いは、地縁や血縁ではなく、信仰によるものだからです。だから著者は、このようにいろいろな地名を書くことによって、メシアは、みんなのメシアであり、イエスさまはみんなを証人として招かれたということを語っているのです。

 イエスさまの中には、誰でも同等です。
 みんながイエスさまの招かれた弟子たちであり、みんながイエスさまの証人です。今日の福音書が語っているのはこれです。「イエスさまはあなたのメシアです。そして、あなたはメシアの証人です。」イエスさまのお召しには、差別や偏見などはありません。ですから、私たちは皆、イエスさまの証人になることができ、証人になった人々は、51節の言葉通り天が開けることを見るのです。そして最後の日、私たちはイエスさまの証人として紹介されるのです。信仰を持って、証人として生きるのは、絶対に容易ではないと思います。時代を問わず、証人の生活はみんな大変でした。しかし、この大変さが私たちに意味があるのは、イエスさまが私たちのために十字架につけられたからです。十字架によって、証人たちの生活を価値があるものにしてくださいました。そして最終の日に証人たちは、より価値のある者になるでしょう。神さまが皆様の信仰を導いてくださいますように。証人としてイエスさまを証言する皆様の上に、神さまからの慰めと平安がありますように。主の御名によって祈ります。アーメン