回復された私たちの日

主の変容主日 マルコによる福音書9:2~9

 外国語を勉強することにあたって最も大事なことは、聞くことだと思います。
 聞いて理解して受け入れること。これができるようにならないと、外国語の勉強はだんだん難しくなります。私が日本語を勉強しているときに悩んだことが一つあります。それは日本語を日本語として理解していなかったということです。言葉には、それぞれの国の文化と生活と習慣が入っています。だから他の言葉を習うためには、言葉を分析して捕えるのではなく、言葉を言葉のまま受け入れなければなりません。ところが面白いことは、このようにしていない人がかなりいるということです。私もその一人でした。そのような人々は、無謀に言葉に「なぜ?」という質問をします。なぜという質問は、言語学においては、良い質問になるかも知れませんが、言葉を学ぶことにあっては良くありません。なぜという質問が言葉の習得を遅くするのだけでなく、言葉を身につけたら自然に解決されることだからです。例えば、私の母国語である韓国語は、動詞を使役形にして使っていません。不思議でしょう。どのようにすれば、使役形を使わずに文章を作ることができるでしょうか。でも、韓国人たちはみんな使役形を使わずに文章を書き、話しています。反面、私が日本語を勉強し始めたとき、最も不思議だったのは、日本語には未来時制がないということでした。動詞の現在形と未来形は同じでしょう。しかし、皆さんは動詞を使っていることに全然不便だと思わず、話したり、書いたりしています。だから言葉を習うためには、分析することより、まず言葉を言葉のままを聞いて受け入れる方がいいと思います。

 なぜ私がこんなに言葉の話を長くしたのかというと、信仰もこれと似ている部分があるからです。
 信仰は信じることを前提としています。そのため、信仰について是非を問ったり、分析したりするなど、数学的なアプローチは、正しくないと思います。信仰や聖書の言葉は、この世の教えとは違って、この世の基準から見ると、合理的ではない部分もあります。そのために誤解を招く場合もありました。しかし、言葉のことでも、言葉を習っているうちに自然に解決されることがあるように、信仰のことでも信仰を持って生きているうちに自然に解決されることがあります。信仰を持たないまま、信仰を分析することは、信仰の世界に入ることを妨げるだけです。

 今日は主の変容主日であり、福音書も、主の変容の箇所です。
 この変容については、さまざまな意見があると思いますが、私はこの主の変容は弟子たちのためのものだったと思います。一次的には、イエスさまの言葉を理解していなかった当時の弟子たちのために、二次的には、信仰の道で迷っているすべての弟子たちのために、イエスさまはご自分を表わされました。そして、この変容の中で、神さまはイエスさまの言葉を聞けと言われました。私はこの聞くという言葉がイエスさまの変容の目的だと思います。なぜなら、弟子たちに必要なことは、イエスさまの元の姿を見ることではなかったからです。変化を通して弟子たちを感心させるのではなく、弟子たちがイエスさまの言葉を聞いて従わせることが変容の理由でした。当時の弟子たちは、イエスさまを理解していませんでした。そして、この福音書を読んでいた初代教会の人々は、ローマの迫害を受けていました。このような状況の中で、イエスさまの言葉を聞くということは、本当に難しいことでした。今の私たちも同じです。イエスさまの時代と違う時代を生きていて、世俗主義と無神論が広がっている世の中で住んでいる私たちにも、イエスさまの言葉を聞くというのは容易なことではありません。それで、イエスさまは、変容され、ご自分を表されました。そして、神さまはイエスさまに聞けと言われました。イエスさまの言葉が神さまの御心であり、その言葉に従うのが真理を追求することだったからです。

 今日の福音書は、六日の後という言葉から始まります。
 何が起こった後の六日でしょうか。なぜイエスさまは、このことが起こってから、弟子たちの前で変容なさったのでしょうか。これを調べるために、今日の福音書の前であるマルコによる福音書8章31〜32節をみましょう。
 「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」

 イエスさまは、初めてご自分の死と復活について、弟子たちに言われました。
 しかし、弟子たちは理解していませんでした。そして、弟子たちの中で代表格であるペトロはいさめました。弟子たちにとって、イエスさまの苦みと死は考えたこともなかったのです。彼らは、イエスさまによって自分たちの生活と環境が変わることを期待していたと思います。支配された者から支配する者になることを願いました。だから、ペトロは、イエスさまをメシアだと告白したのでしょう。このメシアという言葉は、救い主という意味もありますが、当時の皇帝にのみ使われた言葉でもあります。そのような言葉をイエスさまに付けて告白するほど、弟子たちの野心と期待は大きかったのです。しかし、このようなことは、イエスさまの弟子の道とは違うことでした。イエスさまは死と復活を通して、ご自分は弟子たちだけのためのメシアではなく、この世のためのメシヤなのだということを教えなければなりませんでした。だから弟子たちを見ながら、ペトロをお叱りになったのです。そして六日の後、弟子たちを連れて、高い山に登られました。

 この高い山で弟子たちは特別なことを経験をしました。
 イエスさまの姿が変わったこと、エリヤがモーセと共に現れ、イエスさまと語り合ったこと、そして雲が現れて自分たちを覆い、雲の中から声がしたことを経験しました。素晴らしい経験だったし、弟子たちの信仰を一層深くする出来事でした。しかし、先に申し上げたように、この出来事の目的は、弟子たちを感心させ、弟子たちにより深い認めを受けるためのものではありませんでした。弟子たちに、イエスさまの言葉を聞かせて理解させること、弟子たちの考え方を変えさせることでした。弟子たちにイエスさまの死と復活を受け入れることができようにすることが変化の目的だったと思います。そして、神さまはイエスさまの言葉を聞けと言われました。

 今日の福音書9節で、イエスさまは弟子たちにこう言われます。
 「人の子が死者の中から復活するまでは、今、見たことをだれにも話してはいけない。」
 これも弟子たち聞くべきことでした。イエスさまの公的な生涯が終わるまで、イエスさまがすべての人のために死んで復活するまで、このことは隠さなければならないことでした。なぜなら、イエスさまの死と復活を通さなければ、イエスさまの変容の意味を理解することができないからです。まるで言葉を習うように、弟子たちは、まず聞いて受け入れなければなりませんでした。時間が経ち、イエスさまの死と復活を経験した弟子たちは、この変化の意味を悟ったと思います。

 聞くこと、私はこれが信仰だと思います。
 ローマの信徒への手紙10章17節に、このような言葉が書かれています。
 「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
 聞かなければ信仰を持つことができません。いつの時代もどんな状況でも同じです。今は理解していないことがあるかもしれません。しかし、聞いて受け入れ、そして時間が経つと、多くの疑問は解けるようになります。信仰の外からは理解できないことが、信仰の中では理解できるようになります。聞いて受け入れる皆様の上に、イエスさまの導きがありますように。信仰の正しい道を歩いて行かれる私と皆様になりますように祈ります。アーメン