復活節第4主日 ヨハネによる福音書10:11~18
2018年の冬に知り合いと一緒に羊の牧場に行ったことがあります。
羊の牧場に行って、思ったより羊の種類が多いのでびっくりしました。そして羊の環境や種類によって、羊毛や乳や肉質が異なり、羊ごとに性格も違い、群れの序列もあることを知りました。イスラエルの羊もいましたが、私の目には、他の羊と似ていました。聖書の多くの箇所で、羊が登場します。聖書での羊は、神さまにいけにえでささげられる動物の一つとして、また、人々に乳や羊毛、肉を与える有益な動物です。出エジプト記では、羊の血を柱に塗った家は、神さまの裁きを通り過ぎていったと書かれていますね。また、羊は多くのたとえとしても使用されていますが、旧約聖書では、イスラエルの民が羊としてたとえられており、また、メシアが子羊としてたとえられています。でも、新約聖書では、イエスさまによって羊の意味が変わります。羊を失った神の民として例えたり、イエスさまに従っている人々を羊に例えたりしています。しかし、前の説教のとき申し上げたように、新約聖書は、イエスさまの時代の後に記録されたものです。でしから、イエスさまの公的生涯、すなわちイエスさまが活動なさった時の羊は、旧約聖書での羊の意味と同じく、神の民、または神のことを示すために使われていたわけです。すなわち、旧約聖書の羊の概念とそんなに変わらなかったということです。このことを念頭に置いて、今日の福音書を読んでみましょう。
今日の福音書でも羊が登場しています。
ところが、今日の福音書で中心となっているものは、羊ではありません。本当に羊を大事にする人が誰なのかということが中心です。イエスさまはご自分の周りに集まっているユダヤ人たちに、ご自分は良い羊飼いだと言われました。ご自分を良い羊飼いだと言われたこの発言は、当時には衝撃的なものだったと思います。なぜなら、先に申し上げたように、羊は神の民を意味していたからです。詩篇23篇1節でダビデは、「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」と吟じています。ダビデが神さまを羊飼いだと告白したように、イスラエルでの羊飼いとは、最終的には神さまを象徴するものでした。たとい神さまを象徴するものではないとしても、神さまが権威を与えられた王や指導者たちを象徴するものが羊飼いでした。ところが、イエスさまは、ご自分を良い羊飼いだと言われました。この発言は、明らかにユダヤ人の神経にさわっただろうと思います。
さらに、イエスさまは、ご自分は他の指導者たちと違うと言われます。
それは、今日の福音書12〜13節に書かれています。
「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」
イエスさまはご自分を羊飼いだと言われ、他の指導者たちは雇い人だとおっしゃいます。その理由は、彼らがご自分とは違って、羊に関心を持っていなかったからです。今日の福音書の前には、盲人がイエスさまに癒された話が書かれています。ところが、ユダヤ人たちの指導者格だったファリサイ派の人々は、この盲人が癒されたことを問題とします。イエスさまが癒されたことが問題になったのではなく、癒された日が安息日だったので問題だというのです。そしてイエスさまに癒された人を呼び出してどのようなことがあったのかを調べます。しかし、自分たちが望んでいた答えを聞くことができないと、癒された人の両親を呼び出して調べます。それでも望んでいる答えを聞くことができなかったので、再びイエスさまに癒された人を呼び出して調べます。自分たちが持っている力で、力のない人を踏みにじったのです。イエスさまはこのような指導者たちは、羊飼いではなく、雇い人だと言われました。そして雇い人は、困難な時が来ると、羊を置き去って逃げるでしょう。
最近、いろいろな困難を経験しているミャンマーという国があります。
軍人たちが力を占めて民たちを迫害して弾圧しています。私が幼い頃、韓国も軍部政権でした。私が通っていた小学校の近くには、大学がありましたが、当時の大学生は軍部政権に反対するデモを頻繁に行いました。軍部政権の警察は催涙弾でデモを鎮めたので、私もよく催涙弾ガスを吸わせられました。大人たちは、私のような子供でも、警察に捕まえることがあるかもしれないと思って、いつも子供たちに言葉に気をつけなさいと言いました。当時の日本は、世界経済大国であっただけでなく、民主化を成し遂げていた国でした。だから韓国で民主化運動やそれに関する事件が起こったら、日本のジャーナリストたちは、マスコミを通して韓国の状況を全世界に知らせてくれました。韓国の教会も民主化運動の先頭に立ちました。軍部政権に反対し、デモ隊を応援して民主化のために祈りました。その結果、軍部政権は退けられ、韓国は今のように民主化された国になることができました。現在、ミャンマーも同じ状況だと思います。だから、教会はミャンマーのことに関心を持たなければならないし、祈るべきです。彼らのことが、世界に知らせられ、雇い人のような軍部が退けられるように祈らなければなりません。なぜなら弾圧されるミャンマーの民たちも神の羊だからです。彼らのために、イエスさまが命を捨てたからです。私たちの関心と祈りが、ミャンマーの雇い人を逃げさせるのです。
今日の福音書16節でイエスさまはこう言われます。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
私はこの箇所によって私たちが他の国と民族のために祈り、宣教しなければならないだと思います。イエスさまの羊は、教会の中だけにいる羊ではありません。イエスさまは囲いに入っていない羊にも関心を持っておられます。イエスさまを知らない民、苦難の中にいる民、正しいことのために戦っている人々にも、イエスさまの声が聞こえなければなりません。イエスさまが彼らを応援しておられることと、イエスさまの愛が彼らと共にあるということが知られなければなりません。
ユダヤ人にとって羊は、自分自身だけでした。
12部族に属する人、律法と安息日を守っていた人でした。律法を守らない人、異邦人たちは、羊に属していなかったでしょう。また、律法を守ることができなかったり、法律で汚れていると書かれている悪霊につかれた人や病気や障害のある人も、やはり羊に属することができなかったでしょう。ところが、イエスさまは、そのような人々と出会ってくださり、交わってくださり、癒してくださいました。むしろ自分たちが本当の羊だと思っていた人々とは議論なさいました。彼らの考えが間違っていて、みんなが神の羊であるということを、イエスさまは教えてくださいました。
だから、イエスさまにとって羊は、決められたカテゴリーの中にいる人々だけではありません。
みんながイエスさまの羊であり、イエスさまは彼らのために命を捨てて、復活なさいました。イスラエルの民たちだけが神の羊ではないように、教会の人だけがイエスさまの羊ではないということです。だから、私たちはいつも私たちの隣人と他の国や民族のために祈らなければなりません。イエスさまの言葉が教会にいる私たちだけでなく、教会の外の人にも共に臨みますように。みんなが一つの群れになりますように祈るべきです。イエスさまは18節で、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない」と言われました。誰も、悪魔も、大きな力を持っている人も、イエスさまの羊になった私たちから命を奪い取ることができません。この真理の言葉が教会の外の人々、迫害と苦難の中にいる人々、心の病と闘っている人々と共にありますように主の御名によって祈ります。
アーメン