聖霊降臨後第18主日
マルコによる福音書9:38~50
福音書に記されているイエスさまの弟子たちは、初代教会のリーダーとなった人々です。福音書が面白いなと思わされる一つに、初代教会のリーダーとなった弟子たちのしくじりぶり、ダメっぷり、おっちょこちょいぶりがしっかりと記されていることです。
弟子たちは、イエスさまがこれから十字架に向かうことになるというメッセージを耳にしながらも、誰が一番偉いかを言い争うような者たちでした。そのような人たちがリーダーとなったら、自分の犯した過ちや、失態、しくじりは隠したいと思うようなものです。ですが、彼らは自分の弱さや、愚かさや、限界を包み隠すことなく、人びとに正直に、まっすぐに語り伝えたのです。
初代教会のリーダーのダメっぷりを聞いて、つぶやく人も、後ろ指をさす人も、がっかりする人もいたかと思います。それでも弟子たちはありのままの罪ある等身大の自分に目をつむることもしなかったし、正直に語ることもやめなかった。なぜならイエスさまが、ありのままの自分を見限ることも、見捨てることもしないで、愛してくれたから。ありのままの自分のすべてを受け止めてくれたから。ありのままのすべてを人々に語りました。
ありのままの自分から目をそらすことをしないからこそ、こんな自分に向けられている神さまの憐みと、愛と、ゆるしとを噛みしめ、尽きることのない無償の愛を、味わい続けること、思い起こし続けることができたのかもしれません。つまずきそうな時、主イエスのあの日、あのときの言葉が心に立ちのぼり支えてくれる。落ち込むようなとき、激しい迫害にあうようなとき、あの日あの時に包まれた主イエスの限りない愛が生きる勇気、希望が与えられた。だから主イエスの愛にとどまりながら、主イエスの言葉を思い起こしながら、自分が見て、聞いて、体験した嘘偽りの無いイエス・キリストの喜びの知らせである福音を人々に証し、伝え、届け、知らせていったのです。なぜなら、弟子たち自身が確かに受けた、主イエス・キリストの言葉、思い、愛が、人生の確かな軸となり、支えとなり、助けとなり、いのちの究極の拠りどころとなる、救いとなるからです。
初代教会のリーダーたちはカッコつけるのでもなく、上から目線でもなく、純粋にイエス・キリストの福音が私にも、あなたにも、すべての人に届くように、自分の失敗も、しくじりも正直に語り伝え続けたのです。
さて、今日の福音書の箇所で弟子のヨハネが出てきます。もちろん彼もイエスさまにとても愛された弟子のひとりです。ヨハネも他の弟子たちと同じように誰が一番偉いかを議論した一人であったでしょう。そのような彼らにイエスさまは、一人の子どもを抱き上げながら「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである(37節)」と話されました。
愛する者のために、どんなに小さな者、人の目にも、気にも留められないような小さな者のためにも、いのちを差し出そう、ご自身のすべてを与え尽そうとされる主イエスの思いを、このときの弟子たちは理解することも、くみ取ることもできませんでした。
イエスさまの言葉のすぐ後にヨハネはイエスさまに向かって言うんです「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました(38節)」と。
権力への野心だったり、自分たちはイエスさまから選ばれた特別な者なのだ、という特権意識だったり、自分たちこそ主流派なんだというような派閥意識に弟子たちの心は覆われてしまっていたのでしょう。
ヨハネは、イエスさまの名によって悪霊を追い出している者たちに、その行為を止めさせ、自分たちに従うよう迫ったと言います。これを聞いてイエスさまは「やめさせてはならない(39節)」と注意を与えて、弟子たちを諭しました。
イエス・キリストの御名が人の物差しや価値観に左右されるなんてことがあってはならないし、神さまの愛と救いの福音が、派閥意識や特権意識のこの世的、人間的な思いによって妨げられたり、取りあげられたりするなんてことがあってはならないでしょう。神さまの救いを、イエス・キリストの福音を、弟子たちの作りあげた枠組みや、私たち人間の思い込みの中に閉じ込めてしまうなんてことがあってはならないし、神さまの福音を自分の思いや、都合に合わせて人から取り上げるようなことがあってはならないのです。
イエスさまは、すべての人を救いたい、支えたい、守りたい、導きたい、という神さまの思いを胸に、小さな人にも、貧しい人にも、罪深い人にも、どのような人にも真剣に向き合い、神さまの言葉、神さまの思い、神さまの愛を伝え、知らせ、届けました。
私たちに差し出されたイエス・キリストのいのちには、私たち一人ひとりに向けられている思いやり、やさしさ、限りのない無償の愛がはっきりとあらわされています。
イエスさまがどれほど私たち一人ひとりのことを思いやり、愛しておられるのか、ということを弟子たちが受け止めることができていたなら、イエスさまの名が広まること、イエスさまの名によって多くの人が癒されること、イエスさまの名によって救いが与えられることを、それがどんな形であったとしても、心の底から喜び、祝福することができたでしょう。
しかし、イエスさまの言葉、思い、愛からピントがズレている、ブレている弟子たちは、権力への野心や特権意識を丸出しにして、イエスさまの名による行為を止めさせたり、自分たちに従わせようとしたり、小さなものを軽く見てしまう態度をとってしまった。
イエスさまは、彼らのブレ、ズレを補正し、修正し、更生しようとして語りかけます「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい(42節)」と。
「つまづかせる」と訳されている言葉は「罪を犯させる」と訳すこともできる言葉です。罪を犯させるとは、神さまから引き離し、関係を引き裂き、神さまから背を向けさせる、ということです。
私たちは、そして教会は、どんなに小さなものにも注がれている神さまの眼差し、神さまの尽きることのない憐れみ、愛と、恵みとを見失ってはいけないし、どんなに小さなもののためにも差し出されたイエス・キリストのいのちと十字架の重みを忘れてもいけない。そして、人をつまずかせるようなこと、神さまから引き離し、関係を引き裂くなんてことがあってはならいのです。
イエスさまは深い憐れみと、尽きることのない愛をもって弟子たちに、そして私たちに語りかけ続け、呼びかけ続け、働きかけ続けます。主イエス・キリストのみ言葉は、私たちの内に生きて火となり、塩となって、主の御心から逸れたり、ズレたり、ブレたりする私たちを整え、支え、助け、主の御心と愛のもとへと招き続けてくださる。そして私たちに語られる主イエスのみ言葉と、注がれる愛と、恵とは、私たちのいのちの確かな軸となり、人生の土台となり、究極の拠りどころとなるでしょう。
イエスさまはいいます「互いに平和に過ごしなさい(50節)」と。私たちは、特権意識や、派閥意識に毒されることなく、小さなものを決して軽んじることなく、思いやりをもって受け入れ合い、福音を喜び合い、互いに平和に過ごしていくものでありたいです。
これからも共に祈り合いイエスさまを思い起こしましょう。共に礼拝に与りイエスさまを見つめましょう。共にみ言葉に耳を傾け、主イエス・キリストの尽きることのない愛を味わい、噛みしめながら、互いに平和に過ごしていきましょう。そして、すべての人に与えられた福音を分け隔てなく、差別することもなく、感謝と喜びをもって人々に伝え、知らせ、届け、分かち合っていくキリストの教会でありたい、イエス・キリストの福音を証ししていく一人ひとりでありたいです。