昇天主日 ルカによる福音書24:44~53
今日は昇天主日です。昇天主日は、文字通りに主の昇天を記念して生じた日です。もともとこの日は、日曜日ではなく、復活節から40回目となる日として、平日の木曜日です。使徒言行録1章3節には、イエス様は40日にわたって弟子たちに現れ、神の国について話されたと書かれています。これを踏まえ、カトリックでは復活節の後、40日目になる日である木曜日を、キリストの昇天日として守っています。そしてカトリックの影響を受けているヨーロッパの諸国も、この日を祝日として守っています。しかし、私たちのように昇天日が祝日ではない国では、その週の日曜日を昇天主日として守っています。それで、私たちの教団手帳には、主の昇天日が26日木曜日と29日日曜日の2か所に書かれており、私たちは集まることができる日曜日を昇天主日に選んで守っているのです。だからといって、私たちにとってこの昇天主日が重要な日ではないわけではありません。イエス様の昇天が現れているのは、単に天に上げられたイエス様だけを象徴しているわけではないからです。昇天は、私たちの信仰の人もイエス様のように神の国に入ることができるということ、救いのすべてのことが完成されたということを示しているのです。救いの完成を目に見えるようにすること。これが昇天の意味です。だから、昇天という言葉、つまり天に上げられたことだけに意味を与えてはならないと思います。天に上がるのは、飛行機やロケットもできることだからですね。今日の福音書51節と52節にはこう書かれています。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、」この箇所で「天に上げられた」と「イエスを伏し拝んだ後」、この二つの文は、ある聖書の写本には書かれていないそうです。書かれていない写本があるというのは、この文章が後に追加されたかもしれないということです。そして面白いことは、この2つの文章が書かれていないとしても、全体的な内容には、影響を及ぼさないということです。この二つの文章を除いて一度読んでみましょう。「そして、祝福しながら彼らを離れ、彼らは大喜びでエルサレムに帰り、」
いかがでしょうか。この二つの文章が抜けても、全体的な意味が変わるのではないでしょう。ですから、私は個人的に「天に上げられた」という文章が書かれていないことも悪くはないと思います。その理由は、この文によって昇天の意味が褪せる可能性があるからです。昇天は復活と共に、私たちの救いが完成されたということを示すことです。この昇天の出来事が後に追加されたことも、昇天の意味を可視的に示すためだと思います。そしてこのような意味の中で、私たちは昇天主日を守っているのです。昇天主日である今日、私たちに与えられた福音書は、ルカによる福音書の最後の章に書かれている言葉です。この最後の言葉は、イエス様が昇天なさる前に弟子たちに教えられたことです。イエス様が昇天の前に何を教えられたかを調べてみましょう。今日の福音書44節の言葉です。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緖にいたころ、言っておいたことである。』」
イエス様は、ご自分についてのモーセの律法と預言者の書と詩篇の事柄は実現すると語られました。この言葉は、旧約聖書のメシアについての預言がご自分によって成し遂げられ、また次第に成し遂げられていくことを語られているのです。私たちの考えでは、預言を実現することは、そんなに重要ではないように見えることもあると思います。私たちの生活と直接関わっていないので、さらにそう考えることもあります。しかし、この預言を約束の観点から見ると、預言の実現は、ユダヤ人だけでなく私たちにとっても重要なことになります。なぜなら、約束は信頼に基づいているからです。私たちにも、十字架による救いの約束があります。そしてこの約束は、信仰を通して私たちの生活の中で実現しなければならないことです。そうでなければ、私たちの信仰は無駄なものになります。ユダヤ人にとって預言の実現というものも、これと同じでした。神様がなさった約束として、必ず実現しなければならないのが預言でした。ですから、イエス様はご自分を通してメシアの預言は実現されると言われました。
しかし、イエス様とユダヤ人たちの間では、この預言の実現についての考え方が違いました。皆様もこのことについてはよくご存知だと思います。ユダヤ人はどんなメシアを望み、イエス様はどんなメシアとしてこの世に来られたかを私たちは分かっています。しかし、当時の弟子たちは、メシアについて自分たちの考え方を捨てることができませんでした。それで、イエス様は弟子たちに聖書を悟らせます。45節の言葉です。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、」ユダヤ人が持っているメシア思想を捨て、イエス様の教えに従うこと。これが弟子たちに与えられた新しい思想、元のメシア思想でした。そして弟子たちは、このようなメシア思想を伝える証人として(48節)イエス様に召されたのです。
これを弟子たちに悟らせたイエス様は、ご自分の苦難と死と復活をおっしゃいます(46節)。これはメシアが必ず成し遂げなければならないことです。旧約聖書の中には、ヨム・キプルという贖罪の日というものがあります。この日は、年に一度、すべての人の罪が赦される日です。そして、この日だけ神殿の至聖所の門(幕)が開きます。今日の礼拝の後、エルサレム神殿について皆様と分かち合いますが、大祭司といっても自分勝手に至聖所に入ることはできませんでした。至聖所は神様が定められた聖なる場所であったので、罪のある人は入ることができませんでした。年に一度だけ、贖罪の日にのみ罪を許された大祭司は入ることができました。しかし、このような規定はイエス様によって破られます。マタイによる福音書27章51節には、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と書かれています。これは、イエス様が十字架につけられて死なれたときに起こったことで、イエス様の死によって人間と神様の間を妨げていた罪の問題が解決されたことを示しています。メシアがすべての人間を代表して捧げ物になったのです。それで、年に一度の贖罪の日も、至聖所を通した罪の許しも、私たちには要らないことになりました。イエス様が私たちのすべての罪を取り除いたからです。そして、捧げ物となったメシアの復活によって、イエス様に従っている私たちも新しい命として復活するのです。イエス様は、これが、ご自分による罪の赦しと悔い改めがエルサレムから始められ、あらゆる国の人々に宣べ伝えられると言われます。47節の言葉です。「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に 宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、」。
エルサレムに住んでいたユダヤ人たちはもちろん、世の中の人々は、自分たちだけのためのメシアを望んでいると思います。自分を高めてくれるメシア、自分の敵を取ってくれるメシアを待っています。表では、みんなの平和と安寧を語っていますが、裏では自分の平和と安寧を願っています。最近起こっているいろいろな戦争と迫害を思い出してください。これらのことには欲だけがあり、他人に対する犠牲は少しも見出すことはできません。それで、イエス様はユダヤ人たちから排斥されただけでなく、イエス様の弟子でさえも、イエス様が言われたメシアのことを理解していなかったのです。そして、このようなことは、神様の御前で罪になるしかないと思います。隣人のためのもの、愛と平和のためのものは、一つもないからです。ですから、イエス様は罪の赦しを得させる悔い改め、すなわちメシアの福音がエルサレムから始められ、あらゆる国の人々に宣べ伝えられると言われます。世の中が神様の許しを得られるように、この世が自分の過ちを悟り、悔い改めることができるように、メシアの福音は宣べ伝えられなければならないのです。そのために、イエス様は十字架にかけられ、死んで復活なさったのです。
今日の福音書であるルカによる福音書の最初の章には「マリアの賛歌」が書かれています。このマリアの賛歌の主なテーマは「公平な世界」です。マリアは、身分の低い自分がメシアを身ごもったのは、神様の恵みだと賛美します。これは私たちの神はどんな神であるかを示す言葉だと思います。そして私たちが何を目指すべきかも教えてくれる言葉だと思います。イエス様は、一部ではなく皆のためにこの世に来られ、十字架にかけられました。また、ご自分の名による悔い改めと赦しを私たちに与えてくださいました。そして、これは昇天の前に弟子たちに教えてくださった最後の教えでした。この教えに従ってイエス様の証人として生きる皆様になりますように。イエス様がいつも私たちを導いてくださいますように、主の御名によって祈ります。アーメン