限りないあわれみ

聖霊降臨後第20主日 ルカによる福音書18章9~14節

 私たちの生きる社会は、存在するだけでは価値を認めない社会です。勉強ができる、スポーツができる、仕事ができる、できることに価値をおくのがこの社会の価値基準です。
人が「生きていても仕方がない」と口にするとき、その人は確かに生きていて存在している、しかし、それだけでは価値がないと言っているようなものです。何か役に立つことをしなければならないのに、それが失われたとすれば、存在する理由も見失ってしまうのです。しかし、この存在するだけに価値を認める世界があれば、存在することだけでも価値があるのだという世界を知ることができれば、人は生きる力と勇気が持てるんじゃないでしょうか。存在そのものが愛されている。役に立つとか立たないとか、優れているとか劣っているとかに関係なく、存在しているだけで私を愛してくれる、そんな存在がいることを知り、その存在のそばにいつでも身を置くことができたなら、私たちの心に生きる勇気と、希望と、平安とが湧き上がるのではないでしょうか。
私たち一人一人にいのちを与えてくださった神はいいます「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」と。
私たちが今ここの存在するのは神さまの思いと愛によってです。誰が何と言おうと、神さまは私たち一人一人を唯一無二のかけがえのない、価値ある、貴い存在として愛してくださっています。聖書が示す神さまは愛する私たちとの繋がりを持ち続けたい、交わりを保ちたい、絆を深めたい神さまです。ですから神さまは聖書のみことばを与え、御子イエス・キリストを与え、聖霊を与え、教会を与え、祈ることを与えてくださいました。
私たちは、神さまが与えてくださった聖書のみことばに聞くことや、礼拝に与ること、祈ることを通して、神さまのそばに身を置くことを大切にしながら、神さまから与えられる限りないない憐れみ、愛と、祝福をいただいていきましょう。
さて、今日の聖書箇所には、祈るために神殿に、つまり神さまの御前に進み出ていく二人の人の姿があります。一人はファリサイ派の人。もう一人は徴税人です。ファリサイ派の人はユダヤの教え、律法を遵守する、徹底的に守ることをしていた人たちで、ユダヤ教社会の中で大きな影響力を持った人々でした。ですからファリサイ派の人々の中には、律法に無知な人や無関心な人、罪人などと言われている人々を激しく批判し、見下すような者もいたようです。
もう一人神殿に祈りに来た人は、徴税人です。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあったわけですから、ローマに雇われた徴税人は、ローマのお役人から税金の取り立てを命令されお金を徴収するわけです。ですから、ユダヤの人々からはいいようには思われない、嫌われ者なわけです。さらには必要な分以上に税金を誤魔化して徴収し、私腹を肥やしていた者も中にはいたといいます。ですから当時のユダや社会では、徴税人は軽蔑され、見下され、「罪人だ」「汚れたもの」だと言われていたわけです。
二人は神殿で神さまに向かって祈ります。ファリサイ派の人は『神さま、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します』と祈り、徴税人は『神さま、罪人のわたしを憐れんでください』と祈りました。神さまに義とされた、つまり、神さまに受け入れられたのは徴税人の方であったとイエスさまは言います。
ファリサイ派の人の祈りの中に私たちは罪に蝕まれている人間の姿を見るわけです。できる人は、できない人を心の中で見下したり、批判したり、裁いたりしている。どれほど清く正しく生きようとも罪の根は深いものなのだということを思うわけです。
もしも、ファリサイ派の人が、自分ではどうすることもできない罪の闇を抱えていることを知り、その罪の闇と向き合っていたならば、誰かを蔑んだり、自分のできていることを誇るような態度や、祈りの言葉は一言も出てこないのではないでしょうか。
徴税人の「罪人のわたしを憐れんでください」という祈りは、私という人間の真実に立った祈りだと思います。全く嘘のない赤裸々な、真実の祈りです。徴税人は神さまの前で取り繕うことも、誤魔化すことも、飾ることもなく、真実の自分自身をさらけ出し祈っています。
お父さんが牧師で、哲学者でもあった森有正という人がこんなことをいっています「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そこでしか神さまにお目にかかる場所は人間にはない。人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神さまに会うことはできない。」
祈りとは、神さまが私たち人間に与えてくださった贈り物、賜物、プレゼントでしょう。自分の限界や、無知や、惨めさや、罪深さを知り、思い悩むそのようなとき、私たちが神さまに出会えるように神さまは私たちに祈ることを与えてくださった。孤独に悩むようなとき、これからどうすればいいのか途方に暮れるそのようなとき、祈りによって私たちは神さまに出会うことができる。私たちは祈りによって神さまの存在を思うことができるでしょう。
徴税人は、遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら「神さま、罪人の私を憐れんでください」と祈りました。神さまは彼の祈りを受け止めると同時に、彼自身のあるがままを受け止めてくださいました。
自分は神さまの近くにいるとか、遠くにいるとかいうことを決めるのはファリサイ派の人でも徴税人でもない。人が決めことでも、決められることでもありません。神さまの近くにいるということを決めるのは神さまご自身だけであり、神さまのみです。
私たちの抱える深い罪の泥沼から私たちが救われるのは、どれだけのことができるとかできないとか、役に立つとか立たないとか、優れているとか劣っているとかまったく関係ない。ただただ神さまの限りない憐れみと、尽きることのない無条件の愛によることなのです。
イエス・キリストの十字架の出来事こそ、私たちに向けられた神さまの深い憐れみと、限りない無条件の愛の確かな証です。欠けも、破れも、足りなさもある罪人である私の、罪のゆるしと、救いのためにイエス・キリストは十字架にかかってくださった、その尊いいのちを差し出してくださったのです。それは、私たちが律法を欠けなく守っていたからでも、優れて敬虔な者であったからでもなく、神さまの私たちに向けられている一方的で、圧倒的で、徹底的な、限りない憐れみ、尽きることの無い愛によるものです。
私たちは、胸を打ちながら「神さま、罪人の私を憐れんでください」と祈った人のように、うぬぼれることも、見栄を張ることも、誤魔化すこともなく、神さまと向き合う祈りの時を大切にし、私と神さまとが、互いにかけがえのない存在であることを思うあたたかな交わりの中で、心穏やかに生きる者でありたい。
イエス・キリストの十字架の出来事にあらわされた神さまの限りないあわれみと、尽きることのない無償の愛を思い起こしながら、思い巡らしながら、与えられたいのちを大切に、感謝、喜び、賛美をもって生きる者でありたい。