マルコによる福音書3章1~12節
皆さん、幸せですか。
幸せだと思う方、どうして幸せですか。
幸せではないと思う方、どうして幸せではないですか。
私たちの幸せの条件とは何でしょうか。誰かが側にいること、お金があること、家があること、仕事があること、こういうことでしょうか。または、今苦しいことがないから、悲しみがないから、貧しくないから幸せだと思うのでしょうか。
逆に、不幸になるのは、誰かが側にいないから、お金がないから、自分の家がないから、仕事がないから、または病気だから、障害があるから、貧しいからでしょか。
貧しい家で生まれてそれほど勉強ができなかった人でも、幸せに生きる人は大勢います。身体の障害を持って生まれても、幸せに暮らす人は大勢います。ちゃんとした仕事がなくても、一日、一日働いて、そこで出遭う人たちと笑いながら幸せに暮らす人も大勢います。
幸せになる条件、幸せである条件は、わたしの心のありようなのです。それ以外にはありません。
昔、ある人が真理を求めて旅をしていて夜になり、雨が降ってきて休む場所を探しました。雨の日の暗闇の中でやっと休めそうな場所を見つけて入り、そこでとても安らかに一晩を休むことができました。ところが、次の日、起きてみたら自分が気持ちよく休んだそこは、お墓として使われていたところでした。雨が降り続き、そこでもう一晩休むことになりましたが、前の晩はあれだけ安らかに眠ることができたのに、お化けの気配におびえたり、怖い夢ばかり見たりして、一晩まったく眠ることができなかった。そこで、その人は、悟ったそうです。すべての答えは、人の心の中にあるということです。
何も知らなかったときには安らかだった場所が、お墓だったと知ったとたん不安と恐れに脅かされる場所となる。たった一晩で、その場所が天国となったり地獄となったりする。瞬間、瞬間を行ったりきたりする、それが人間の姿なのです。このことを悟ることができたとき、人は真理を手に入れたと言えるのでしょう。
幸せの条件も同じです。
私たちがいつまでも、あの人がそうしたからわたしは幸せ、あの人がそうしたからわたしは苦しいというように考えている限り、一生、本当の幸せを味わい、安らかな人生を送ることは難しいのです。それは、自分の人生の真ん中を生きていない、常に真ん中を、影響力の大きな親や連れ合いや子どもや恋人といった誰かに、またはお金に、仕事に、苦しみや貧しさに譲って、自分の人生なのに自分はサイドに立って生きるようなことです。
今日イエスさまが入られた会堂の中にもそう言う人たちがいました。
安息日に、イエスが、片手の萎えた人を癒すかどうか、それを見るために集まっている人たちです。見るだけでなく、イエスを殺す口実として告発するために集まっているのです。なぜなら、イエスは、自分たちと違う考えを持つ人だから。イエスは、天の神さまをなんと「わたしの父」と呼び、人々に向かい合うときも、一番弱い人たちを大切にする。自分たちの考え方や常識とはまったく異なるのです。または自分たちに向かい合うときは、はっきりと過ちを指摘する。そんなイエスは目障りだったのです。イエスがいると、幸せではない。長い間積み重ねてきた神への信仰や神に対する神学的な知識も無視されて、プライドが傷つき、いらだつ。今苦しいのはイエスのせいだ。イエスを片付けたらすっきりしそう、だから、今イエスが、安息日の規定に反した行動をするのかどうかと、イエスの行動に注目しているのです。
悲しいことですね。
この人々の心に映るイエスと片手の萎えた人は、ただのものに過ぎません。イエスと片手の萎えた人は部外者で、自分たちとは違う人だから、切り捨てても、どこも痛くないという立ち方です。でもこれがわたしたちの姿なのです。牧師であるわたし自身、このような狭い考え方に捕らわれてしまうことが少なくないのです。
イエスさまは、そんなわたしたちを見抜かれました。そして、片手の萎えた人に命じます。「真ん中に立ちなさい!」と。
「真ん中に立ちなさい!」
別に真ん中に立たなくても、萎えた手を癒すことはできたと思います。しかし、聖書の中で真ん中に立つという言葉が出てくるときは、とても大切なときです。
復活されたイエスさまが弟子たちに現れて「あなたがたに平和があるように」と平安を祈るところは、いつも弟子たちの真ん中でした。
また、ヨハネ8章には姦通の現場で捉えられてイエスさまの前に連れてこられた女性の物語がありますが、彼女を告発していた人たちがみんなそこを去り、最後にイエスひとりと真ん中にいたこの女性が残ります。そのとき初めてイエスは彼女に語りかけます。
「「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」…「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」」(ヨハネ8:10~11)
「真ん中に立ちなさい!」
この真ん中とは、神さまの偉大な業がなされる場所です。罪が癒され、死の中に置かれていた人に新しい命が与えられるところです。死んでいた人が生き返るところ。神さまと一つになるところです。
片手の萎えた人も人々の真ん中に立たされます。そして、萎えた手は元通りになりました。本来の姿を取り戻したのです。以前は、片手が萎えたということで、堂々と礼拝堂に入ることが許されなかった。しかし、これからは堂々と礼拝ができる!存在の回復です。つまりそれは、彼が、あらゆる偏見や感情的隔てを超えて、自分の人生の真ん中を生きるようにされたということです。
そして、この出来事は、そのイエスと手の萎えた人を見て、告発する口実を探していた人々に向かっても語りかけているのです。あなたがた、「真ん中に立ちなさい!」。萎えた心を差し出しなさい。神さまの救いの業の中に萎えた自分を委ねて、あなたの人生の真ん中に戻りなさい。本当の幸せを生きるようになりなさい、と。
いま、わたしたちにもイエスさまが語りかけておられます。「萎えた心を差し出しなさい。真ん中に立ちなさい」と。