それは、クモの巣もあるところ?

マタイによる福音書13章44~52節

みなさん、幸せですか。わたしがいない二週間も幸せでしたか。天国の国民は、どんなときも幸せです。悲しいときも、寂しいときも、苦しみに襲われるときも、納得のいかないことが次から次へと起きるときでも幸せです。この世で幸せな人が、死んでも幸せなところへ行くと言うことを、忘れないようにしましょう。

今日の福音書の中にも幸せな人が一人登場します。

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイ13:44)

ある人が、人の畑を耕していました。この時代は、庶民は自分の畑を持つことがゆるされず、領主の畑を耕して、そこから出る数分の一のものをいただいて生活をしていたと考えられます。庶民にとってこのような生活は、むなしい生活です。働いても、働いても、自分のものとして残るのは、その日みずからを養うための僅かなものでした。

そのような日々の中で、心を襲う虚しさを慰めるものはなく、ただ食べるために、お腹を満たすために働き、働かなければ生きることに大きな支障がもたらされるのです。養う家族がいればなおさらのことです。

ですから、このたとえ話に接する際に、わたしたちは、今、魂の渇きが満たされる者として、このように毎週主の食卓に招かれているという幸いを感謝しましょう。それも、無条件に呼ばれているのです。わたしたちが、良いことをしたから特別に招かれているのではありません。自分勝手で足りないところだらけなのに、魂の渇きを慰めていただき、満たされて生きるように神さまの前に導かれていることに感謝しましょう。

生きることの虚しさを抱えつつ、来る日も来る日も他者の畑を耕す人。彼は、ある日、その畑に隠されていた宝を見つけました。宝を見つけ、喜びながら家に帰った、とイエスさまは述べておられます。この喜びは、生まれて初めて味わう喜びかもしれません。仕事が終わって帰る道が、この日は特別な道になりました。そして彼は、自分の持ち物をすべて売り払って、この畑を買いあげました。自分の全財産を売り払ってしまっても惜しくないほどの宝が、この畑の中に隠されていたのです。

このたとえ話を通してイエスさまはわたしたちに何を語ろうとしているのでしょうか。それは、一日、一日を虚しく過ごす時がわたしたちにはあるのだということです。

神さまが造られた宇宙の一空間に住まいが与えられて、本来は、誰でも、主体的に、自分らしさを十分発揮して、与えられた自分の人生こそ十分に生きるように造られたはずなのに、他者の人生にこそ関心があり、他者の人生のために悩み、そして、神の国ではないこの世の価値観の中でそれらしく位置づけられている多くの虚しい時を、いつの間にか過ごしてしまうと言うことです。

神さまが造られたこの宇宙には、どこから来たのかわからないが共存しています。善と悪が共存しているのです。神さまの似姿に造られたと言われるわたしたちの中にも、善と悪が共存しています。その悪の力がいかに巧みにわたしたちを襲うのかわかりません。悪賢さをもってわたしたちを誘惑します。時には、正義と言う名前の下で働くときもあります。

この悪賢い声は、わたしたちにこの世での生き方や成功する道について教えてくれます。頑張れば!闘えば!手に入る!ということがまるで真理であるかのように教えているのです。けれども、どんなにがんばっても、どんなに一所懸命に生きても、一つだけ手に入れられないものがあります。それは、わたしたちの魂の渇きを満たすということ。ですから、この悪賢い声に聞き従うとき、人は、この世で成功した人々の群れの中に立っているように感じても、魂は雨が降らず渇き果てた夏の大地のようなものであるということ。

このような生き方は、自由を失い、奴隷のような生活を強いられ、自分がどこにいるのかをも知らず、虚しく生きる道。一日、一日の生活を営むことはできても、社会的な地位や名誉や生活の安定は保証されていても、魂の渇きを満たすことはできません。悲しいことがおきると悲しみに支配され、納得のいかないことの前で挫折し、人を恨み、人のせいにし、暗闇の中で死を恐れながら生きるようになるのです。そこには、本当の喜びがありません。

先週は一週間夏休みをいただいて、先日病気でなくなった韓国の姪の墓参りに行きました。兄の長女ですが、膵臓癌を患い、43歳で亡くなりました。兄は今も悲嘆に暮れていますし、家族の中にまだ大きな悲しみがあります。わたしにも悲しみがあり、どうしてこんな不条理なことが起きるのだろうと、理解できないところもあり、複雑な気持ちで姪の墓を訪れていました。

亡くなった姪の妹が小学校2年生の娘を連れてわたしをお墓へ連れて行ってくれました。ところが、墓地につくと姪が葬られたところが見つからず、ぐるぐると探し歩きました。姪は樹木葬で葬られていたので、同じ背丈の木がたくさんあったので探すのが難しかったのです。そのとき、一緒に探し回っていた小学校2年生の子が、「お母さん、そこは、くもの巣もあるところなの?」と聞いてきたのです。わたしたちは、突然の、とんでもない質問に、笑ってしまいました。そしてそこで、心の中にあった悲しみや、どうして?という疑いやらがすべて吹っ飛んでいくのを感じました。

そこは、くもの巣もあるところなの?

雨上がりの草むらの所々に張ってあった小さなクモの巣、この小さな女の子にとっては、それで一つ探すヒントになるのかもしれないと思ったのでしょう。神の国は、このような者のものであるとおっしゃったイエスさまのお言葉通り、死の悲しみの中に浸っていたわたしたちに、小学校2年生の子が神の国をもたらしてくれたのです。そのお陰で、わたしたちは、姪の墓の前で「お姉ちゃんの死は、必ずしも悪いことではないのかもしれない」と、前向きに話をすることができました。

悲しみや疑いの絶えないこの世の虚しい日々の中に、宝のように輝く子ども。その素直さは、世の中の悪知恵を生きることが上手に生きることだと思い込んでいる大人のわたしたちを、天の国へ導いてくれます。

その子ども性、純粋で素直な子どものようなわたしが、実は、わたしの中に隠されているのです。それを、この世の習慣に慣れてしまったわたしという畑からぜひ見つけ出したいと思うのです。その子どもは宝であり、それはイエス・キリストに他ならないからです。わたしの中に隠れているイエスを見つけてはじめて、わたしたちは、自分の持ち物すべてを、古いものも新しいものも打ち出して、貧しい人や病んでいる人と共有するような余裕が出てくるのです。

この世ではいらないものにされて、役立たないものだと言われて捨ててしまった子どものような、純粋で素直なわたしを、今週はわたしの中から探し出すとき、宝探しの一週間です。そのわたしが天の国をこの地上にもたらす働き人であり、そのわたしであるとき、わたしたちは、神の国の畑を耕して生きるように変えられるからです。