2020年4月5日(日) 四旬節第6主日
マタイ福音書27章11節~54節
あの日、イエスさまが受けた人々から受けた仕打ちと、人々の態度を思うと、失望感と絶望感が心に湧いてきます。イエスさまは、逃げも隠れもせず、静かにすべての出来事に向き合い、人々の行いも、言葉も引き受け、彼らのすべてを受け止めることで、神の深い憐れみと無償の愛を示されました。神がイエス・キリストを通してこの世界にはっきりと示されたのは、どのような絶望と失望が襲う出来事の中にあっても、神は私たちを見捨てることも、見放すこともなく、私たちと共に在るのだいということです。
私たちはときに予期せぬ絶望に襲われることがありますし、他者からの酷い仕打ちに苦しみ、悲しむこともあるでしょう。そのような時に自分を受け止めて、共にいてくれる存在がいてくれたなら、信頼できる存在との確かな繋がりを感じることができるなら、その存在から生きる力と勇気と希望を得て、絶望から抜け出し、再び前を向いて生きることができると思います。神は、私たちが悲しみや苦しみに打ちひしがれて生きることを望んでいません。だから神は私たちにイエス・キリストを与えて、あなたと共にいること、救いのあること、永遠のいのちがあるということを示し、生きる力、勇気、希望を与えるのです。神のこの世界と私たち一人ひとりに向けられている深い憐れみと、限りない無償の愛は、十字架という絶望の極みによってさらに鮮やかに示されました。
イエスさまは十字架にかけられ叫ぶのです「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と。
十字架のような痛み、苦しみ、悲しみ、屈辱、絶望、そして死の恐怖が私たちを襲うなら誰もが同じように叫ぶに違いありません。イエス・キリストは、その身に絶望を味わい、絶望の叫びをあげることで、私たちのすべてを受け止めること、私たちを襲う絶望的な痛みや、苦しみ、悲しみ、そして死という出来事のただ中にも共におられることを示されたのです。
望みが絶えたと思うそのどん底にキリストは来られ私たちを救う。だから私たちはイエス・キリストの十字架に希望を見出して生きることができる。私たちがキリストを信じてキリストと共に生きるなら決して望みは絶えない。